学生時代に戻ったつもりで芸術や美を語る①





①芸術とは…人間によって発見される秩序をもった自然的存在を、一定の手続きにより、価値を結晶軸にして、それ自身自己完結的な、人間によって組立てられた秩序をもつ美しく快い作品にまで作り上げる技術、それが芸術である。

②さらには、人間の日常生活の中では触れることができないようなある神秘的な、超越的な雰囲気が、その術の中から漂い出てこなければならない。

                             今道友信「美について」(講談社現代新書)

学者の書いた文章なのでかなり硬い表現だと思うが、私はかなり納得している。②は芸術の「定義」というよりも「必要条件」であろう。ghoti様の言う「目から鱗」や「新しい価値観の創造、価値観の逆転」も「神秘的な、超越的な雰囲気」に含まれているとみて良いと思う。


1.泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず  作者不明


2.桜花散りぬる風のなごりには 水なき空に波ぞ立ちける   紀貫之 


1.は幕末の有名な狂歌である。2.の短歌は古今和歌集の編纂に関わった平安期の代表的歌人の一人、紀貫之が詠んだもの。狂歌も短歌も「五七五七七」の三十一文字を原則とする和歌である。

私が二つの歌を並べた理由を述べる。狂歌は京都宇治の高級茶「上喜撰」とアメリカの黒船の「蒸気船」を上手く引っ掛けたシャレである。傑作だ。

紀貫之の短歌も「なごり」に=名残りと余波の意味を持たせた掛詞である。余波とは波が去った跡に残る余波のことであり、名残りの方は文字通り、風の名残りである。余波は五句目の「波ぞ立ちぬる」にリンクしている。

つまり、二つの歌は共に三句目の「じょうきせん」「なごり」というシャレが実によく効いた名歌というの共通点がある。

しかし、ghoti様流に言えば、狂歌はエンジョイアブルな「大衆芸能」であり、紀貫之の短歌は「目から鱗」の芸術と私は考えたい。今道氏の定義や必要条件を満たしていると思うからだ。

狂歌の「じょうきせん」は単なるシャレ(座布団10枚くらいの上手さだが)であるのに対し、「なごり」には詩があり、余情がある。さらに、空を海に見立て、風に舞う桜花を波に見立てた発想は斬新的だった。当時の誰も思いつかなかった発想なのだ。

これは現実の光景をそのまま描いたものではない。現実から人工的に組み変え、加工したものだ。自然的存在を、一定の手続きにより価値を結晶軸にして美しく組み立てられた技術、つまり、芸術ではないだろうか。人工物であってもここには人間の想像力を活かした幻想的な美しさがある。

「散りぬる」は同じ過去や完了を示す助動詞の「散りにし」でも「散りたる」でも音調の美しさ、優雅さが壊れてしまう。「立ちける」は感嘆を示す助動詞「ける」の連体形であり、これしかない。「立ちぬる」では感嘆の意味が無くなるし、「散りぬる」「立ちぬる」では繰り返し表現で上手くない。

しかし、私がこのように分析したところで、芸術性の証明には必ずしもならない。芸術や美が人間の「感覚」「感受性」に大きく依存しているからである。

ここで大切なことがある。芸術や美は感覚や感受性だけで味わい、感動を受け、その価値が高く評価されるとは限らないということだ。「童謡」や「絵本」が子供には美しく感じるとしても、大人の芸術的、美的要求を満たすであろうか?

続く




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2012.05.16 | | コメント(55) | トラックバック(0) | 歴史・文化



コメント

片割月さん、こんにちは。

まずは、記事内容とは異なってしまいますが、先日ご紹介いただきました、ISUのPCS研修動画の感想から綴らせてくださいませ。
大変貴重な映像をお教えいただいたというのに、私の賢くない頭脳には、なかなか大局句的にといった視点からそれを生かし切る事ができないような、理解不十分な状態で、申し訳ない限りなのですが、 私なりに感じた事を、ぼつ切れ的ではありますが おきき願えましたらと思います。

一番始めに思いましたのは、佐藤有香さんがスケーティングの好例に登場されて、(上手く表現ができず、私の印象ですが)清潔感あふれるキチッとした伸びやかな滑りが印象的で、ジャンプは得意とはされていなく、高難度も持っておられなかった記憶ですが、美しい滑りからの 流れるようなジャンプを、心地良く拝見致しました、 さすがの佐藤親子だなって思いました。
真央選手も一層あやかりたいですね。

チャン選手はスケーティングの好例には出てなくて、おやっと思いましたが、まだもう一歩磨かれていなかった 出始めの時期の映像だからかと。
トランジションの好例には多数出ておられて、 腕を動かすのみでなく、全身を上下に使ったつなぎの動作が良いようで、足元はフットワークが良いものが高評価を受ける、 当然の事かもしれませんが、こうして一つ一つ確認しながら拝見すると、理解し易かったです。
そして、動画を観おえた後、改めて世選や国別の録画を観てみたのですが、 国別では沢山ミスがありながらも、スケーティングが まるで漕いでなくて自動で滑っているようで、その上伸びがあって、といった感想を持ちました、やはりチャン選手の滑りは別格なのかもしれません。
女子にもあんな滑りができるでしょうか? 体力が必要でしょうか?

バトルさんも多数好例にあがっていましたが、バトルさんも、さぞやPE系で沢山 と思っていましたら、バトルさんがスケーティングの好例で、 ですからバトルさんが世選で優勝したのは、芸術性というより(それも良かったでしょうが)、スケーティングを認められてのことだったのかと認識できたように思います。

PEでは順当にランビエールさんがあがっていました、確かに美しい選手ですものね。

我らが真央選手も つなぎの好例にノクターンであがっていて、 ノクターンも確かにとーってもステキなプロです、ウットリですよね。

このような、特に言葉にすると こま切れ状態のような感想に至っているようで、自身の理解力不足を嘆かわしく思っておりますが、 ですがです!!!今後フィギュアを観させていただく上において、これを拝見した事は、非常に有意義なものになる、この経験が少しずつ身になり肉となるであろう事を、確実に予感してもおりますところで、これを参考に勉強を深めていかれたらとも思っています。

片割月さんのご紹介に、今一度 厚くお礼申し上げます、ありがとうございましたm(_ _)m
今後も折にふれ こちらを拝見し、バイブルとさせていただきます。

尚、現役選手を研修の例にあげることへの疑問もあるようですね、その意見も解りますが、私自身はその辺りにも確たる見解を持ててはいない状態で、 でもです、 こうして堂々と映像を明らかにしてもいるのですから、ジャッジが研修例に惑わされず、試合毎にフェアに評価ができるもの、と信じたいと思います。


芸術とは・・につきまして一言ですが、、、 やはり私の頭脳には、その定義、普遍性、意味…等々が明確に理解や区別やができないでいますが、 片割月さんが仰るような’普遍性’といったものはおそらく存在するのだろうとは思います、 しかしながら 私は敢えて、芸術とは 自由で解放されたもの、と思いたいのですね、 これは願望か もしや我儘かもしれません、けれど 私のような頭脳明晰でないものにも解り得る、存在し得る、ただただ自由なもの、であってほしいと思うのです。 

片割月さんも、定義立てたとして、どの芸術作品に 共鳴、影響、感動…をするのかはそれぞれ、とも述べておられますし、 ghotiさんの仰る’目から鱗’にも’束縛されたくない、でも共感したい’、といった思いにも納得です。  ’共感’は、「自由」を共感する ということではどうでしょう?

けれど勿論 芸術の為なら何でも許されるということではありません、この事は明言させていただきたいと思いますが、こういったこと以外は、「自由」であってほしいと。。。
以前私は アンコウさんのところで(また別ブログの件、ごめんなさい)、芸術とは を少々意見交換したことがあるのですが、 その時「自由で 答えのないもの」とかきましたが、「自由で 答えのないもの、あるいは全てが答えで正解」とすべきだったかと思っております。

ただ、この思いは私にとって最終的なものではありません、自称芸術好きの私にとって 一生のテーマかと、、、答えが出る日は来るのか来ないのか、といったところです。

片割月さんの〝続編〟を楽しみに、読ませていただいてから、コメントさせていただこうかとも思いましたが、後出しジャンケンのようになるものいけないかと、今回 先の別件とで長くなりましたが、現在の想いをかかせていただきました。

長文、すみませんでした。  

2012/05/17 (木) 17:48:00 | URL | ベリア #- [ 編集 ]

絶対的主観性

まさに

「自由で 答えのないもの、あるいは全てが答えで正解」

で大正解ですよ。

どれほど著名な専門家が「芸術性が高い」といったところで、自分の感性に響かなければその人にとっては芸術ではないのです。

間違えてはいけないのは「技術性が高い」ということと「芸術性が高い」ということはイコールではないと言うことです。

この場合、「技術性が高い」というのは著名な専門家の言うことの方が多くの場合は正しいと言うことです。

フィギュアのPCSはそういう点では「芸術性」そのものではなく「芸術に近づこう」と挑戦する選手の「技術の洗練度」を評価していると見るべきなのでしょう。

2012/05/17 (木) 19:19:07 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

>フィギュアのPCSはそういう点では「芸術性」そのものではなく「芸術に近づこう」と挑戦する選手の「技術の洗練度」を評価していると見るべきなのでしょう。

あー、私それ、以前は「芸術性」そのものだと誤解してましたよ。
それを理解しないとSSがベースになるってことが「若手がベテランに勝てない仕組み」という誤解などにつながっちゃうんでしょうね。

2012/05/17 (木) 22:00:32 | URL | きれじろう #EBUSheBA [ 編集 ]

Re: タイトルなし

ベリア様、こんばんは。

あの動画集、とても参考になったようで、嬉しいです。

ベリア様の感想を読みまして、色々と啓発され、刺激され、発見も多かったであろうご様子が伺われます。

これは何回でも見る価値がありますよね。

ジャッジの方々はこれだけ多くのポイントをチェックし、瞬時に採点をしなければならないのですから大変だろうと思います。テレビで演技を見ながら自分がジャッジになったつもりで採点しようと思ったら、とてもとても付いていけませんでした(^。^;)

ジャッジの方々には「この選手は気に入らないから下げてやれ」などと考えるヒマなど無いでしょう(笑)

私達は採点結果を知ってから「ああでもない、こうでもない」とブーブー言うだけです。ま、それもある意味、フィギュアの楽しみ方の一つということで。ムキになり過ぎなければ(苦笑)

一部のファンから「キムヨナ選手が『良い例』としてジャッジ講習会に取り上げられている。不公平だ。不正だ」との批判がありましたが、これがガセネタだったと今回の動画集でキレイに証明されましたね。


>芸術とは 自由で解放されたもの

ここはとても重要なご指摘、着眼点だと思います!!

芸術と自由は親戚関係みたいなものだと思うからです。

例えば、伝統や因習からの自由、既存の価値観からの自由、観衆や聴衆からの自由、新しい発想や考え方、つまりは創作の自由などなど。

>芸術の為なら何でも許されるということではありません

分かります。如何なる新しい芸術も過去の歴史の積み上げがあってこそ成り得るものでしょうね。

それとは全く無関係に存在はし得ない、…そういう意味では完全に自由でもないし、何でも許されるということでもないでしょうね。

後出しジャンケンであれ、後付であろうとも、ベリア様の「自由な」感想や反論をいつでも歓迎です(#^.^#)

2012/05/17 (木) 22:29:47 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

Re: 絶対的主観性

(ΦωΦ)フフフ…、バルタン様の「絶対的主観性論」が炸裂していますね。

私はこうしたご意見にも賛同出来る部分とそうでない部分とがあります。

>どれほど著名な専門家が「芸術性が高い」といったところで、自分の感性に響かなければその人にとっては芸術ではないのです。

その通りです。「芸術を鑑賞する側の視点」として、これも確かに一つの意見です。

私達は日頃、やれ芸術だ、やれ大衆芸能だ、とこだわらずに自由に楽しめばそれで良いのですからね。

しかし、そこには芸術を創作、創造する側の視点と、それに対する忖度が欠落しているのではあるまいか?

賛否両論ありますが、私が挙げた二つの和歌の例に触れて頂くと、より嬉しいのですが(^。^;)

以上のことも、おいおい記事にアップして行くつもりですので、ヨロシク。

2012/05/17 (木) 22:43:41 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

再度 失礼いたします。

バルタントモゾウさんの仰せ、ほぼ同意させていただきます。

片割月さん、ご返信ありがとうございます。
明晰でなく、なんだかもぞもぞくどくど申し上げてしまっている私に、いつも温かいお言葉、ありがたいです。
ISU動画は 今後も貴重な資料として、大切にさせていただきます。
確かに 素人には、滑りの上半身を観ていれば 足元が観れないし、 ジャッジも大変ですね、うーむ。

「芸術」に関しましてですが もう一言だけ述べさせていただければ、「自由」と思うのならば、他者の「自由」も極力受け入れていくべき、とも考えております。

本当上手くかけませんし、色々自己矛盾してしまっているかもしれませんが、 「芸術」は私にとり永遠のテーマともいえて、想いは’流動的’であり、勉強を続けていきたいと思います。  


2012/05/17 (木) 23:15:31 | URL | ベリア #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

>「芸術に近づこう」と挑戦する選手の「技術の洗練度」を評価

しかしですね、この主張には「芸術」の定義が欠如しています。

「芸術に近づこう」の「芸術」って何ですか?

「芸術」は存在するのですか?へっへっへ(^Д^)

芸術は絶対的主観だから、100人いれば100通りの芸術があります、って論理では困りますが。

如何か?お歴々よ<(`^´)>

PCSは「芸術とは全く無関係で、単にスケーティングの技術のみを評価する。優雅さ妖艶さとかは無関係。音楽のリズムや強弱と合っていれば良い」ならまだ分かりますが。

例えば、コストナー選手の昨季のショスタコーヴィチの音楽は抽象性が高く「特別な感情や表現」を求める類の音楽ではないですよね。

2012/05/17 (木) 23:17:59 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

>「自由」と思うのならば、他者の「自由」も極力受け入れていくべき

フフ…何だか、自由民権運動のお話しみたいですね(#^.^#)

それは冗談として、ベリア様の主旨が…何かの折にでも、この辺をもう少し具体的に書いて頂けるとありがたいです。面白そうなテーマですからね。

2012/05/17 (木) 23:22:33 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

片割月さんへ

>「芸術に近づこう」の「芸術」って何ですか? <

個人が自己の内面にある感性を、他者に向かって表現したいと思うものは全て芸術である。

そこには巧緻の差は存在しない。

「芸術性の高さ」と言うのは、表現者の観点ではなく、鑑賞者の観点から語られるものである。

大きな違いは芸術は、創造者の視点であり、その優劣を騙るのは鑑賞者の視点である。

芸術に対する普遍性が科学理論と同じような普遍性を求めることの難しさは、視点が違うと言うことにある。


科学理論はどこから見ても同じように理解でき感じ取れることが重要。
そしてそれを検証できることが重要。

芸術には検証をする必要性はない。そこに芸術に厳密な意味での普遍性を求めることの難しさがある。

芸術における普遍性は、喜怒哀楽によってその割合も変化すると考える。

喜びや楽しみはかなり多くの共感性が得られると思うが、怒りや悲しみは各人各様で置かれた立場でもとり方が変わると思える。

個人的な事例として、ベートベンの「運命」を、高校受験の最中であった私の姉は「怖い」と感じ取り、中学に上がったばかりの私は「わくわくする」と感じた。

これは置かれた状況から、運命の扉を開けるのが、置かれた立場によって「不安感」と掻き立てられたり、「期待感」を書き立てられたりすることを如実に現していると思う。

小説でもそうだが、その時々で同じものを読んでも感じ方が変わる。

だからこそ芸術に普遍性を求めるのは難しいと思う。





2012/05/18 (金) 21:01:54 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re: 片割月さんへ

バルタン様、レスありがとうございます。

コメントの内容はごもっともなことばかりで、反論の言葉は今思いつきません(^。^;)


>個人が自己の内面にある感性を、他者に向かって表現したいと思うものは全て芸術である。。

> だからこそ芸術に普遍性を求めるのは難しいと思う。

不思議ですが、芸術の定義があるのに、その普遍性を求めるのが困難というのも、芸術の特徴なのでしょうか。

仮に普遍性が無いとすれば、定義付けそのものも無意味になりそうですが。

私もこの辺は混乱していまして、頭が整理出来ていません。

思いつきで語っていますので自分で矛盾を感じているところです。

しかし、定義はともあれ、芸術は現実に存在していること…これは確かだと思います。

2012/05/18 (金) 22:03:13 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

補足

>「芸術に近づこう」の「芸術」って何ですか? <

前のコメントでは、近づこうとしている芸術の正体がわかりにくい。

近づこうとしているのはその個人が、表現しようとしている理想形がその表現者にとって芸術だと言うこと。

けれども完成形ではなくても、芸術であることには代わりが無い。

表現者と鑑賞者が同じ目線で表現したいものの中身が垣間見える部分が大きいものほど「芸術性が高い」といえるとは思う。


元々「芸術」という言葉が明治以降、大正デモクラシーなどの西洋コンプレックスから高尚なものという勘違いから、芸術と言う言葉を高く評価したがる(価値のあるものとして敬いたがる)一部の人たちがいるのは、過去の歴史から仕方の無い部分であるとは思う。

例えば手品だが、どれほど有名なマジシャンであっても、アーティストと呼ばれることはめったに無い。

アートとは何か?

漢字から言うならば、術と言う言葉がつくものには、芸術以外にも忍術、手術、技術、算術などなどある。

英語から日本語へと訳すときに、術が必要なのか?

昔は三味線や日本舞踊などは芸事と呼ばれた。
技能であって、それ以上でもなければそれ以下でもない。

芸術と言う言葉の無い江戸時代以前でも、歌舞伎や浄瑠璃や落語や浮世絵といった庶民芸能は存在している。

西洋文化的芸術を尊ぶのは、西洋コンプレックスがいまだ根付いているからとも思える。

その証拠に日本画は、あまり一般の間では話題にならない。

ピカソの良さがわかって東大寺の大仏の良さがわからないという人もいるだろう。その逆もいるだろう。

一般的に芸術とは、個人の製作した物をさすことが多いが、集団で製作したものでも芸術となりえる。

語源をさかのぼれば遡るほど芸術の正体は謎に包まれる。


ゲ~術、オカマの術か~~~(笑)

いやいや、キャバクラ好きのghotiさんの得意技かも(笑)

2012/05/18 (金) 23:12:25 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re: 補足

バルタン様、補足、ありがとうございます。

「芸術」という言葉は古代中国からずっと使用されている漢語であり、中国や日本では「芸術」という包括的な言葉に「書道」「造園」「文芸」「茶道」「書道」「演劇」に至るまでの意味を持たせ、一切を統一的見地から論じようとする伝統があったそうです。以上は「美について」今道友信氏による。


従いまして、日本人が「芸術』に西欧コンプレックスがどの程度加味されたかは微妙な感じもしますが。。

「アート論」は興味深いテーマでして、バルタン様のコメントに関連して、記事にアップするつもりです。

2012/05/19 (土) 00:44:07 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

藝術

>日本語における「藝術」という言葉は、『後漢書』5巻孝安帝紀[3]の永初4年(110年)2月の五経博士の劉珍及による「校定東觀 五經 諸子 傳記 百家蓺術 整齊脫誤 是正文字の「蓺術」から来ており、明治時代に西周によってリベラル・アートの訳語としての意味を付加された。いまではアートの同義として使用されている。<

ウィキペディアではこう記載されているが、現在使用されている意味合いでの芸術とは違う気がする。

どちらかといえば求道精神を持った技能と言う気がする。

この時代にはまだ茶道はなかったと思える。

考えられる芸能としては、「書道」「文学」「造園」「演劇」「器楽」「声楽」と思える。

東西の違いとして顕著なのは「書道」に当たる物が、西洋にはないと思える。

「書道」といえるものが存在するのは、極東地域で、漢字使用圏に限定されるのではないのだろうか?

書道が西周が訳した芸術と言う意味の中に含まれるとは思えない。

しかし絵画ではないが、絵画に近い意味での情景表現を内に秘めているのが書道だと思える。

書道を芸術と認める国は地球上で一体どれくらい存在するのだろうか?

芸術の普遍性を考えるのには良いテーマに思える。



2012/05/19 (土) 03:06:18 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

キャバクラ芸術論、キャバゲ~\(^o^)/

バルタンさんの
>ゲ~術、オカマの術か~~~(笑)
>いやいや、キャバクラ好きのghotiさんの得意技かも(笑)

を受けて、

恐怖細胞(恐怖を感じる細胞ネットワーク)が発火するように怖い声を出せる人が悪魔の正体。
http://www.youtube.com/watch?v=uDJVUNW_dUU&feature=channel&list=UL#t=5m50s
(脳神経)細胞レベルで考えると、恐怖を感じる細胞発火パターンというのは、長い進化の過程で淘汰されずに残っている。ということだから、(長い進化の過程で獲得された)基本的な感情、芸術を感じる細胞発火パターンも淘汰されずに残っていると予想される。いつの時代か、その細胞発火パターンが発見される日が来ると思う。

(人間の赤ん坊の成長過程で獲得される)感情を細胞レベルでこう考えた。(1基本感情形成-人類的・普遍的)恐怖を感じる細胞発火パターンは、脳の髄鞘化の過程で先天的に形成(獲得)される。(2応用感情形成-文化的)対象に反応する回路。これは経験することによって後天的に形成(獲得)される。

問題は、(1)(2)がいかにして結びつくか!?

赤ん坊が、蛇や蜘蛛に初めて出会ったとしても、たぶん怖さ/気持ち悪さは感じないだろう。蛇や蜘蛛に対する感情回路は、成長過程で、形成されると考えられるからだ。ただ、その形成過程(学習過程で、怖さ/気持ち悪さ細胞発火パターンと心地よさ細胞発火パターンとどっちが結びつきやすいか!?おそらく前者だろうと思う。

何に芸術を感じるかは、後天的文化的だとしても、芸術を感じること 自体は、長い進化の過程で獲得されたものだと考えた方が、夢がある (笑)。

2012/05/19 (土) 13:18:57 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

疑問

人間以外の動物に関して同じように芸術が感じられるのだろうか?

動物は、経験から得た知識がDNAに刷り込まれると言う説を主張している学者もいる。(記憶が曖昧なので具体的な名は上げられないが)

本能的に食すと害になるものを、生まれたときから知っているものがあるということから、そういう推測を立てられている。

自然界では後天的に学べるのは、生命を生きながらえた運の強い個体といえる。

危険を察知する能力が人間は野生動物に比べると、はるかに劣るというのは、私の思い込みではにだろう。

危険を五感で察知する能力が劣っていたがために知識が発達したと私は考えている。

それが芸術という、生命活動とは関係の無いものへの希求心を生み出しているのではと思える。

先天的に芸術を感じることは出来ず、成長の過程においてつかみえるものが芸術だと思える。

2012/05/19 (土) 18:27:56 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

生まれは育ちを通して

ぶっちゃけ、人間のどんな活動も、行き着くところ、物質の化学反応。ただ生きるという意味では、単細胞生物が最強\(^o^)/

たまたま、二種類の単細胞生物が合体して、真核細胞生物が生まれた。やがて真核細胞生物の中から、共生を媒介として多細胞生物という個体生物として生きる生物が生まれた。偶然の変異と必然の進化の最下流に人類が居る。文字通り、人類は複雑ゆえ下流生物だ(ホモデメンス)。

  ご参考:はるか昔の夢の時に
       http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/04/blog-post_28.html

人間のような意識すなわち意識を自覚している生物はおそらく人間だけだろう。ただ、食う寝る遊ぶ、だけに収まらず、生きる意味とか、芸術とは何か、とか、考えたりするのも、おそらく人間だけだろう。

何がそうさせているのか、これもすべては、物質の化学反応。

人間を他の生物と顕著に隔てる性質の一つに言語能力がある。学習能力の一つである。もちろん他の生物にも原初的な学習能力はある。物質の性質ということを考えれば不思議な話ではない。

言葉は、生まれ育った環境によって、後天的文化的に学習される。とはいえ、先天的言語能力が備わっていなければ、どんなに言葉を覚えさせようと努力しても言葉は身につかないだろう。「生まれは育ちを通して」である。

言葉を芸術に置き換えても同じことが言えると思う。

2012/05/19 (土) 19:56:23 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

思考が化学反応か?

この問題に関しては、非常に微妙な部分があると思う。

化学反応として思考が生み出せるのであれば、他の動物でも同じ化学反応が存在していてもおかしくない。

なぜなら地球上に存在する物質構成は、限定されており、人間やサルでの構成自体も非常に似通っているからだ。

卵が先か鶏が先かになるのだが、思考も化学反応だとすると、その初動状態を形成する条件は何かというのが問題となる。

この点において思考も化学反応という論理だてをすることは、非常に怪しいと思える。


宗教的な意味合いでは無神論者ではあるが、思考ということに関しては、超自然の存在を考える方が私には納得しやすい。

魂という言葉で表すと陳腐になるので、使わないが、思考は一種の電磁波だと思える。

生体を持たない精神生命体というのはSFでは良く現れるが、そのような存在を考えた方が、単なる化学反応から、生命というものへと変化したのはなぜかを考えるのには都合が好い。

化学反応であれば、反応物質が無くなればその時点で反応そのものが終了する。

その終了を、反応物質そのものが避けようとして、必要な物質を求める。生命維持活動とはそういうことになる。

2012/05/20 (日) 08:25:22 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re:思考が化学反応か?

バルタンさん おはようございます

>化学反応として思考が生み出せるのであれば、他の動物でも同じ化学反応が存在していてもおかしくない。
DNAが違えば違う化学反応があってもおかしくはない、と思います。もちろん共通するDNAしたがって同じ化学反応もあることはいうまでもないことですが・・・。

DNAで構成される遺伝子のちょっとした違いが、振る舞いに大きな違いをもたらす例として、
アセトアルデヒド分解酵素活性型遺伝子があります。この遺伝子を持つかもたないかでの違いによって、お酒に強いか弱いかが決まってきます。http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/sakenituyoiyowainozenkokubunpu.htm

>卵が先か鶏が先かになるのだが、思考も化学反応だとすると、その初動状態を形成する条件は何かというのが問題となる。
>この点において思考も化学反応という論理だてをすることは、非常に怪しいと思える。
>魂という言葉で表すと陳腐になるので、使わないが、思考は一種の電磁波だと思える。

心脳問題も興味深い問題です。万有引力、時間と同様、確かに存在する(感じる)けれど、それが何であるか説明できない(未だされていない)問題。心(意識、感覚、思考、・・・)がいかにして生まれるのか!?脳の化学反応に起因することは間違いないと思います。甘いものを食べると脳の働きが良くなるといわれるのは、脳の燃料がブドウ糖(参照1) だからです。燃料だけで(少なくともそれを燃やす酸素は必要)脳の働きが決まるほど単純な話ではないとおもいますが、一要因ではあると思います。エクスタシーと呼ばれる物質を摂取すると気持ちよくなる、というのも、化学反応が気分に作用している証です。お酒も然り。気分については、化学反応としてかなり説明されています。

燃えるという現象は、最初、燃素(フロギストン)の仕業と考えられたそうです。今は酸化という化学反応として理解されています。生命現象も同様、生気論というのがありましたが(いまもあるのかな!?)、化学反応として理解されています。

同様に、意識現象も、化学反応だと思います。化学反応も電磁現象も同一現象の別々の側面だと思います。というか、エネルギーのレベル(場の状態、紐の震えの程度)によって、あるいは、測定の仕方によって、電磁波として把握されたり、光として感じたり、熱として感じたり、あるいは、物質として、感じたり(把握されたり)、そして意識として感じたりするだけの話だと思います。ですから、(意識の正体について)私の脳内では、化学反応か電磁波かの区別はそれほど重要ではありません。場面に応じた言葉の使い分けがあるだけです。

  ご参考まで:ヒトはなぜことばを使えるか
  http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/blog-post_20.html

「ヒトはなぜことばを使えるか」第四章(脳・心・ことば)「心の出現と創発について」に記述されているのですが、「科学における心」(グレゴリー)を引用しての「創発現象を説明する三つの立場」についてが面白いです。

(参照1)
ちなみに、脳細胞は主にブドウ糖をエネルギー源として利用するのに対し、心筋細胞は主に脂肪酸をエネルギー源として利用する。一方、最大のエネルギー消費臓器のひとつである骨格筋はブドウ糖と脂肪酸のいずれもエネルギー源として利用する。ただし、骨格筋はブドウ糖と脂肪酸の両方が存在する場合にはブドウ糖を優先して利用する。http://202.216.128.227/%93%A7%90%CD%95S%89%C8/04.19.htm  via 人間の進化とエネルギー貯蔵 第3回新エネルギー世界展示会 7.30-8.1
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/3730-81.html

2012/05/20 (日) 11:01:59 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

Re:思考が化学反応か?追記

追記2012.05.20/12:50
>化学反応であれば、反応物質が無くなればその時点で反応そのものが終了する。
>その終了を、反応物質そのものが避けようとして、必要な物質を求める。生命維持活動とはそういうことになる。

御意!(目的論的な言い回しは私は使いませんが)物理化学の言葉を使えばそういうことになります。

要するに、「愛している」ということばより「愛している化学反応」あるいは「お金」の方が、色気はないですが感動があり信用が置ける。ということです。これがいわゆる噂のキャバゲ~術論であります(笑)。

追記2012.05.20/15:10
>宗教的な意味合いでは無神論者ではあるが、思考ということに関しては、超自然の存在を考える方が私には納得しやすい。
バルタンさんは、「科学における心」(グレゴリー)で示された第一の立場、「ヒトはなぜことばを使えるか―脳と心のふしぎ」(山鳥 重 (著) )の言葉を借りれば、アニミズムの考えに近いですな。まあ、魅力的ではありますが論外です、というか詩人ですな\(^o^)/

2012/05/20 (日) 17:16:19 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

脳の化学反応

起こった現象の状態においての、出現するさまざまな化学物質に関しては説明がなされているけれども、その状態になるためのきっかけに関しては説明がなされていない。


恋している状態に出現する化学物質は説明がなされていても、その物質が出現するようになる契機については説明がついていない。

私が、全てを化学反応で説明をすることが怪しいと思うのは、例えばアインシュタインの相対性理論も化学反応から生まれたということになるからだ。

脳科学の医学者は全て化学反応で説明がつくと主張される方もおられるが、思考そのものが生まれる経緯についてはいまだ解明されてはいない。

その経緯が解明されれば惚れ薬も作られるのではあるだろうけどね。

2012/05/20 (日) 18:15:59 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

>私が、全てを化学反応で説明をすることが怪しいと思うのは、例えばアインシュタインの相対性理論も化学反応から生まれたということになるからだ。
では、どういう説明なら、怪しくないのでしょう!?自然科学は説明できることの範囲が非常に狭いです。そして、少しづつではありますが、日々進歩しています。全てを説明しない(できていない、できない)から怪しいでは、話が先に進みません(笑)。

>その経緯が解明されれば惚れ薬も作られるのではあるだろうけどね。
まだまだ、細かい制御はできないにせよ、大雑把な媚薬はありますよ。また、自然科学でなくとも、太古の昔から、媚薬は、経験的に発見されてきました。全てがわからなくても、今現在わかっていることで、それなりのことはできています。それが科学というものでしょう!?

2012/05/20 (日) 18:30:12 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

化学反応

は常に始まるためのエネルギーを必要とする。

可逆反応であれ、不可逆反応であれ、最初の反応に必要とされるエネルギーがどこから与えられるのかが問題となる。

この点に関して、脳内科学では現在のところ明快な回答を与えている学者はいない。

あくまでも現象が起きた後の状態を解明しているのであって、その現象がおきるための必然性を伴う前提条件は解明されていない。

ドラッグなどで、同じような快感を得ることは出来るが、そのことから全て化学反応で説明がつくというのは、少しばかり結論を出すのは早計に思える。

生命維持に関しての現象の多くは化学反応でかなりの部分が説明はつくけれども、「考える」という行為に関しての説明はつきにくいと思える。

個体別に置ける、差を考えた場合、化学反応だけで説明するには、膨大な化学反応の種類がないと説明がつかない。

文章を作るという行為そのものも化学反応であるならば、個体差による表現力の違いはどこから生まれるのか?

現象論で見るならば、そういう差異はどこから生まれてくるのかが大きな疑問となる。

脳の大まかな動きは化学反応で説明されても、個体差から来る差異に関しては、成長過程における脳内ネットワークの育成がどのように思考と直結しているのか、までは説明がいまだなされていない現時点では、化学反応で全ての説明をまかなうのは、やはり無理があると思える。

2012/05/20 (日) 18:44:33 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

自然科学で説明できることは

非常に狭いというのは、「全てを化学反応で説明が出来るという」立場で考えることを否定しなければならないということです。

現状で解明できている範囲はいまだ、一部分であり、そのことを持って結論を決め付けてはならないということですよ。


脳科学の進歩は著しいものがありますが、現時点で全てを説明できるとするには、まだまだ未解明の部分が多すぎるということです。

心霊現象などを考えた場合、(私は存在するという立場で見ているので)化学反応で全てが説明がつくという結論では矛盾を起こすのですよ。

精神は、別次元のエネルギー体であると考えなければ、説明がつかないからですよ。

2012/05/20 (日) 18:52:06 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re:化学反応

バルタンさんのご指摘。了解しました。が、残念ながら、私は、バルタンさんの疑問に納得のいくような答えを持っていません。今後の宿題とさせていただきます。というか、心脳問題に対する立場が違うようですので、バルタンさんの言葉じりに反応した私がバカでした。私は私が納得できる説明を追求しているだけですので、私の為にならないダメ出しはもう結構です(^_-)-☆

追記2012.05.20/19:11
>現状で解明できている範囲はいまだ、一部分であり、そのことを持って結論を決め付けてはならないということですよ。
>脳科学の進歩は著しいものがありますが、現時点で全てを説明できるとするには、まだまだ未解明の部分が多すぎるということです。

これは既に私がコメントしたことです。よく私のコメントを読んでからコメントしてください。

2012/05/20 (日) 18:55:45 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

ghotiさんへ

心霊現象まで視野に入れた場合とでは考える視点が違います。

存在しないという立場で見るなら、結論は平行線ですね。

脳内科学がそういう部分にまで、私に回答を与えてくれる日が来るまで待つしかありません。

2012/05/20 (日) 19:18:34 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

私とバルタンさんとでは満足あるいは納得の方程式が違うということです。

2012/05/20 (日) 19:30:17 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

ghotiさんへ

>現状で解明できている範囲はいまだ、一部分であり、そのことを持って結論を決め付けてはならないということですよ。
>脳科学の進歩は著しいものがありますが、現時点で全てを説明できるとするには、まだまだ未解明の部分が多すぎるということです。
これは既に私がコメントしたことです。よく私のコメントを読んでからコメントしてください。


18:30のコメントを際しているのだろうけど、それを踏まえての後の私のコメントに続くのですけどね。

二極論で考慮するには、意識や思考の問題に関しては、他の事象の説明も含めて考えた場合に私には節美がつかないし納得できない部分が多すぎるということ。

「全てがわからなくても、今現在わかっていることで、それなりのことはできています。」

この思考形態と似た構造から、キム・ヨナの八百長疑惑もでています。

推測を通じて科学が進歩してきたのは紛れも無い事実だけれど、そこから大きな過ちを生んできたのもまた科学だということです。

科学は常に謙虚であるべきというのが私のスタイルなのです。

いかなる場合でも未解明な部分があるうちは、断定は避けるというのが私のスタイルです。

2012/05/20 (日) 20:19:53 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

芸術論と精神論

なぜ、この問題にこだわり、脳内科学で説明がつくことに関して疑義を呈するかというのは、脳内科学で全てが説明がつくのであれば、芸術性の高さに関しても説明がつくことにつながるからです。

普遍性があるということは一定の化学反応に基づいて感情が励起されるということになるからです。

条件反射的に、芸術性を感知するという結論へとつながる可能性を含むからです。

考え方の一つの可能性としては否定しているわけではないのですけどね。

2012/05/20 (日) 20:32:00 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

>18:30のコメントを際しているのだろうけど、それを踏まえての後の私のコメントに続くのですけどね。
もし読んだということをおっしゃりたいのなら、バルタンはよほど読解力がないか曲解上手のいずれかだと思います。

>この思考形態と似た構造から、キム・ヨナの八百長疑惑もでています。
理解不能!

>いかなる場合でも未解明な部分があるうちは、断定は避けるというのが私のスタイルです。
そうですか!?それを言うなら、バルタンさんだって、化学反応では説明できない、と断定してるじゃないですか!?ちがいますか!?

>科学は常に謙虚であるべきというのが私のスタイルなのです。
御意!私もコメント638で、http://poppy445.blog.fc2.com/?mode=edit&rno=638
自然科学は説明できることの範囲が非常に狭いです。そして、少しづつではありますが、日々進歩しています。全てを説明しない(できていない、できない)から怪しいでは、話が先に進みません(笑)。
と言っています。まるで、私が傲慢だと言わんばかりのコメントには戸惑います。
というか、なぜこのようなコメントを私に対してするのか理解しかねます。

あと、バルタンさんは、スピリチュアリズムな人なのかと思ったので(ちがっていたらごめんなさい)、ご参考まで、ということで貼っておきます。

アートマン思想(スピリチュアリズム)を否定したのが釈迦。「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」4/6 http://www.youtube.com/watch?v=s0R3OYqIrII&feature=channel&list=UL#t=6m12s

釈迦の「毒矢のたとえ」、存在の三視点「空観・中観・仮観」「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」5/6 http://www.youtube.com/watch?v=ZuWERqgJ2xQ&feature=channel&list=UL#t=5m

2012/05/20 (日) 20:54:54 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

バルタンさんへ

>考え方の一つの可能性としては否定しているわけではないのですけどね。
そうですか、それなら良いのですが、バルタンさんが、心は化学反応では説明できない と断定するもんだから、てっきり、可能性も否定されたものだと、誤解してしまいましたわ(~_~;)

2012/05/20 (日) 21:05:09 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

ghtoiさんへ

>いかなる場合でも未解明な部分があるうちは、断定は避けるというのが私のスタイルです。
そうですか!?それを言うなら、バルタンさんだって、化学反応では説明できない、と断定してるじゃないですか!?ちがいますか!?



化学反応で全てが説明が出来ていないのは事実だし、その点はghotiさんも認めているでしょう。
考える立場が違っても、事実として断定の出来る部分とそうでない部分は明らかに違います。
一つの要素に執着しないというのも私のスタイルなのですよ。

可能性を一つに絞り込むと、迷い道に入り込むことは多い。

パターンとして確立できる部分と確立できない部分があり、その違いをどう受け取るかで見方は変わる。

肯定的に見るか、否定的に見るか。

私の場合はそういう時は否定的に見るということです。

2012/05/20 (日) 21:19:47 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

了解です\(^o^)/

科学が謙虚であるということは、下記の記事のコメントでも触れています。
バルタンさんが「私が科学は絶対だと思っている」と誤解なさっているご様子でしたので、誤解を解くという意味合いを込めてことさらそうではない(他の説明よりは納得できるとは思っている)と強調するため敢えて紹介させていただきました。

私の好きな曲・その7 - 徒然草子
http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-138.html#comment577
科学の特徴は、ものごとを説明できないことが非常に多いこと。

2012/05/20 (日) 21:49:37 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

数日 他の用が入りまして、コメントさせていただけなかったのですが、その間 頭を使える時間の有る時は、芸術とは…と、真央選手の事を考えておりました。
記事も随分進み、②の方にでもコメントと思いましたが、やはりご用命のありました①の方にさせていただきました。

先日のご用命の
> 「自由というなら、他者の自由も極力受け入れ・・・」を詳しく

私の考えることですから、決して難しいことではないのです、 文そのままにで、 上手くはまたかけないと思われますが 一寸説明させていただけば、、、芸術を「自由」といったふうに捉えるなら、他者の自由も尊重して、
例えば 好みの違いも極力否定的にみないで、認め理解する方向につとめる、
あるいは 「自由」とはいえないと捉える方(かた)に、談義はしても、「自由」を押し付けない、=「(個々人)自由で 答えがないものあるいは全て答えで正解」と自身が考えるなら、「自由でない」という考えも 「自由」に持ってもらうべきで、 それは 自身の考えとは『違う』というだけであって、「自由でない」も『間違い』ではないということだと思うのです。 

少し稚拙でややこしい解説ですが、この様な事のです。

今少し芸術につき想いをかかせていただきますと、
広辞苑には、
1. ・・技芸と学術
2. には バルタンさんが仰るような意味合いの事が、 
しかし、ナント今回調べ直すまで気付かなかったのですが、これより20年程新しい 3年程前購入の電子辞書の広辞苑は、少し改定されていて、 バルタンさんご見解+ ・・鑑賞的価値を創出する”人間の”活動・その所産、となっています、
ですがこの改定は、おそらく広辞苑=岩波として、以前欠いてしまっていたと思われる部分を足し改めたのであり、 1から2への変遷のように、世の中全体の観念が移り変わった為の改定ではない、と私は考えます。

広辞苑は最も信頼して良い辞書のようですし、他辞書も微妙な違いはあり 明確にはできないものなのかもしれませんが、やはり ほぼバルタンさんの仰るような内容の〝定義〟が芸術にはあるようですね、
私のいう「自由・・・」はそこにおいての、{鑑賞的価値}の部分にあるのでないか、と現在思っております、その{価値}を決定するのは個々人自由になるのではないかと。
いかがでしょうか?
(尚、”人間”のとしており、動物達に関してや、自然が造りだすものは、{美}であっても、芸術には含まれないようです。)

以降 特に思いつくままかかせていただきますが、
私は、一人でもその作品等を評価する人がいれば、あるいは芸術だと制作した作者がいる限り、仮に自身は評価せずとも、それが芸術であることを否定したくはない、他者の「自由」を認めるようにしたいと思います。
後の記事で片割れ月さん仰るよう、確かに前衛音楽(といって良いと思いますが)や、絵画の抽象画等は難解かもしれません、面白いという感覚はあるのですが、 ピカソのゲルニカか モネの睡蓮か、といえば やはり睡蓮が好きですからね。 (ピカソは抽象画以外も素晴らしいようで、それは私は好きですが。) 
でも 解らないからといって、即否定したくないと思っています。

自由だから 押し売りはいけない、とならないで、どんどん好きなものをおすすめして、談義等して交流すれば良いとも思いますし(その際 やはり自身が好まないものには否定的な考えも述べることでしょうが(笑)、でも押しつけ切ってしまったり、頭から決めつけたりするのは不可だと思います)、その交流から真実(があるとすれば)生まれるかもしれません、 また 真っさらのままの鑑賞も新鮮で良いでしょうが、 これも片割れ月さんが後で述べておられるよう、経験や知識を持っての鑑賞は、より深く味わえるのだと思います、 先入観や固定観念とっいたものは芸術には禁物だと思っていますが、 経験や知識を持つ事とは全く異なることだと思います。

狂歌と短歌は、狂言と能、川柳と俳句の関係に等しいと考えてよろしいのでしょうか?
であるとすれば、こちらの方は、意味が理解し易いのはそれぞれの前者の方かもしれない、でも 風情があるのは断然 後者の方ですね。  
それでも 一回だけ能、狂言を観にいったことがあるのですが、 狂言は解り易い上に、ある種の良い意味での風情もなかなかあると感じました、 今の私には上手く文で表現できないのですが。 
ですが ここではやはりやはり、紀貫之に一票です。  しかしまた、作者不明に一票の(おそらく)極少数派の方も、頭から否定したくないと思うのです、 稀に 私も、どう考えても認めたくないものもありますが アハハ。
アッ ちなみに私は、芸術好きといっても、趣味レベルの、 片割月さんのご知識の足元にも及ばない程度のものです。
 
やはり後の記事の 感情享受、芸術享受、更には感傷と感動といったことも なるほどで、この辺りも、もっと研究?してみたいと思うところですが、 うーん 「自由」の領域に入ってくることかもしれませんし。 芸術享受というのは、学問的や論理的に理解するということですかね、 楽器が美で、歌が感動、うーむうーむ、、、。 
(また、確かに、自身のやりたいことでなく、聴衆受けの取り込みが強ければ、それは芸術ではなく、エンターテイメントになってしまうように思います、エンターテイメントも極めれば芸術に行き着くと考えますが、はなから受けばかりねらうのは、芸術にはならないとは思います。)

ううーん この辺りやっぱり難しい にわかには理解できないようです、 今回自身が述べましたこと全てを含めて、復習、勉強(といっても詰め込む試験勉強的なことではなく、的確な言葉が浮かびませんが やはり研究でしょうか)してまいりたいと思います。
ghotiさんにも貴重なご見解ありがとうございました、どうぞまた色々お教えくださいますように。

本当にまたも長々になり、ごめんくださいますよう。


  




  








 

2012/05/22 (火) 22:27:31 | URL | ベリア #- [ 編集 ]

追伸

すみません、芸術とエンターテイメントについてですが、’受け’に関して、少しかき方が不十分だったかと思われますので、訂正させてくださいませ。
エンターテイメントは人を楽しませる娯楽だと思います、それそのもの芸術ではないかもしれませんが、極め尽くされたものは、芸術足り得ると私は思うのです、ですから エンターテイメントとして 聴衆を楽しませる’受け’を考え尽くすのは、本筋だと思いますが、 芸術を創造しているのに、はなから受けばかりを考えるのは、私は筋ではないと考える、ということです。
しかし 芸術における’聴衆への受け’についても、研究してみたいと思っています。。。

2012/05/22 (火) 23:00:49 | URL | ベリア #- [ 編集 ]

またもやすみません;

またまた、お許しくださいませ。

確か 真央選手の「鐘」が、ゲルニカにたとえられ評されたことがあったと記憶しています、それは好評価を受けたのですが、 でも 私は、鐘とゲルニカは また一寸違うように捉えております。
そして私は 鐘は好きです。
このことを入れ忘れてしまいましたので、再々度コメントさせていただきました。

本当に(1つめの最後のご挨拶の頭 ’本当に’って妙ですね、それも誤りです、すみません)、
何度も失礼いたしましたm(_ _)m

2012/05/22 (火) 23:21:03 | URL | ベリア #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

ベリア様、こんばんは。

丁寧なレス、ありがとうございます。

ベリア様のおっしゃる自由のこと、ほぼ理解しました。
バルタン様の「芸術は絶対的主観性」に近いご意見と見ました。

ただ、芸術とそうでないものを別ける何かがある、という視点に立つ私とは少し意見が違うようですね(#^.^#)

時代がどう変わろうとも、価値観が如何に変わろうとも、紀貫之の短歌が非芸術的で、作者不明の「上喜撰」が芸術的、という価値判断はまず、有り得ないと思うからです。

自然界にあるものは美しくてもそれは「芸術」とは言いませんね。

また、体操競技における体操選手の動きは実に美しいと思いますが、これは一種の「機能美」であって、
やはり、芸術とは異なるだろうと思います。

主に男性が好む、SL。蒸気機関車の形と動きも、ある種の「機能美」と言えましょう。
私はちっとも良いとは思いませんが、蒸気機関車に美的魅力があることを私は否定しないし、理解出来ます。
しかし、これは芸術とは違うカテゴリーだろうと思うのです。

こうした私の視点は「自由」とは少し異なっているでしょうね。

ベリア様のおっしゃる「エンターテイメントを極めたものが芸術に足りうる」は同感です。

しかし、不思議なことに、ここでベリア様は私と同様、無意識に、又は本能的に「芸術」をカテゴライズしていると思いますが?(^<^)しかし、私はこのベリア様の見解は自然なことだと思います。

何かをカテゴライズするということは、完全なる「自由」とは矛盾するわけです。

いずれにせよ、「一人の人間が『これは芸術だ』と言ったらそれは芸術である」では、芸術をカテゴライズする術は全く無くなりますし、芸術という言葉の意味がどうにも説明が出来なくなるのではないかと思うのです。

「鐘」が ゲルニカ?

うう~ん。この解釈をなさる人はよほどコアな真央ファンなんでしょうね。 

私には、かなり脱線した解釈だと思いますが(^。^;)

音楽も絵画も小説も詩歌も、鑑賞のあり方というのは存在すると思いますが、どうなんでしょうね。

2012/05/23 (水) 00:06:17 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

芸術の主観性

>主に男性が好む、SL。蒸気機関車の形と動きも、ある種の「機能美」と言えましょう。
私はちっとも良いとは思いませんが、蒸気機関車に美的魅力があることを私は否定しないし、理解出来ます。 <


機能美をある種の芸術として捉える人も多い。

スポーツカーの曲線美などはやはり芸術なんですよ。見る人によってはね。
漫画でもそう。

竹宮恵子さんや萩尾モトさんの作品は芸術だと私は感じるしね。

洗練性は一つの普遍性を持つとは思うけどね。

逆に混沌性の芸術性も存在するとは思う。

相反する性質のものでも芸術性(芸術とは何かをカテゴライズしたくないので)は存在する。

2012/05/23 (水) 00:28:08 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re: 芸術の主観性

>スポーツカーの曲線美などはやはり芸術なんですよ

そういう考え方や意見があること、私は否定しませんよ(#^.^#)

しかし、私の意見とは違います。

私達は日常の会話で、何気なく「これは芸術的ですね」と言うことがあります。

しかし、これは修辞の一種として、形容している場合が少なくないと思います。

中選挙区制の時代、政治評論家が「実に上手く票を分け合って、同地区で自民党の二人が当選。まさに芸術的と言える戦術です」と言っていたのを思い出します。

だからと言って、この人は真剣に芸術を考えて述べたのではなく、ある種の褒め言葉としてでしょう。

バルタン様がヤフー掲示板の鬼退治で、時々、芸術的な反論、反証を開陳していたのを知っています(#^.^#)

「芸術」という言葉がやたらとアチコチに拡大解釈されれば、何でも「芸術」と言えなくもない。

「カッコイイ」「シャレている」「お見事」とほぼ同等の意味で使用されるケースもあるようです。

しかし、如何にもそれはチープな感覚だなあと私は思うんですけどね。。。。

芸術がチープになったことを如実に示す現象が「アーティスト」という言葉の氾濫です。

>洗練性は一つの普遍性を持つとは思うけどね。

これは私も述べているように、同感です。

>逆に混沌性の芸術性も存在するとは思う。

はい。
ただし、ここに確かな「思想」や「発明」「斬新性」「高度な技術」が無ければ、只のメチャクチャです。

私が適当に描きなぐった下手な絵でも「芸術です」と言おうと思えば言えるんだから。

芸術とは、極めて優れた才能と個性が「命懸け」で取り組んで、ようやく創造し得る厳しさが伴うものだと私は思います。

命懸けで自由律の名句を詠った山頭火でさえ、時には駄作も少なくないのです。

2012/05/23 (水) 01:03:18 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

不自由の中の自由

風の旅人』編集だより :自由について
http://blog.livedoor.jp/kazetabi55/archives/30424570.html
確かに、現在、「自由」という言葉が使われる時の、その中身はいろいろになっている。いろいろになって、それは価値観の多様を認めることだから、いいことだという風にも言われる。

 でも、ピッチのうえで「自由」に動いて得点シーンを演出し、そのプレーで人に感動を与える「自由」の美しさと、チーム全体の動きと関係なく好きかってに動いて得点に絡めず、それでいて「自由にプレーしてみました」と言う時の「自由」のつまらなさの違いは、だいたいの人がわかっているだろう。

 サッカーでも将棋でも小説でも、おそらく社会でも、一定の形式がある。中身と切り離された形式主義はおもしろくないが、中身の面白さの濃度を高めるために形式は必要だと思う。その形式は、ある意味で不自由さでもあるけれど、不自由さの中でどれだけ自由に動けるかという可能性の広がりこそが面白いのであって、可能性が引き出される余地のない無制限さは、くだくだしてしまりがなく、飽きてしまう。


スポーツやゲームだけでなく、芸術についても当てはまるのではと思った。他から個人の行動(内容)が強制・拘束されないという意味では自由でなければならないが、スポーツやゲームであればルール、芸術であれば形式(音楽であれば音律、調性、無調性、形式、楽器など。文学であれば文法・語彙、形式、媒体。美術であれば、なんだろう、表現形式・手段など)は、とりあえず自由であってはならない、と思う。

引用文にある通り、ルールや形式の制約の中で発揮される可能性の表現とその洗練、追求に意味や面白味があるとのだと思います。そして、その意味や面白味が飽和したその地平の向こうに初めて新しいルールや形式が生まれてくるのだと思う。特に芸術においては、内容の意味や面白味の洗練、追求より形式の逸脱(デタラメではなく新しい形式)に意味や面白味を求める傾向にあるもかなと思った。ちなみに娯楽は、内容の表現とその洗練(新しさは要件ではない)だけを楽しむ行為なのかなと思ってみたりもした。

追記2012.05.23/07:03
守破離のプロセスを通しての離でなければおそらく芸術は感じることができないであろう。
いきなり、破や離では、他者から見たら、面白いですね~、どうぞお好きなように、で終わってしまうと思う。それでもよければ、それも、どうぞご自由に、お気に召すまま、好きにしてくださって結構です、ということになってしまうと思われます。平和ではあります。良いことではあります。しかし、人間には、それでは収まらない、自己を文化を時代を乗り越えていこうとする、無方向のマグマ(パトス)の噴出があります。その無方向のマグマ(パトス)の噴出に方向性を与え形にする、すなわち、カオスをロゴスに変える作業が芸術なのかなーと。形の種類によって、舞踊、歌、儀式、(言葉の誕生)、神話、宗教、哲学、科学、スポーツ、そして、芸術と呼ばれてきたのかな、と思ったりもした。

2012/05/23 (水) 01:41:42 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

心の共鳴

が芸術の普遍性だと思う。

音叉は同じ周波数を持つもの同士を近づけると、一方の振動が動いていないものへと伝播する。

このときのエネルギー伝導は、空気を介するが、芸術の場合は視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚などを通して伝播すると考える。

芸術性が高いというのは、技巧性が高いという要素だけでなく、創作者の創作エネルギーがどこまで作品にこめられているかという要素もある。

技巧性の高さというのは実はこの創作エネルギーをいろんな周波数で伝播させるための技術ではないかと思える。

個々の心の音叉は周波数がそれぞれ違う。
芸術性が高いというのは、多くの帯域に影響を与えることが出来るものといえるのではないだろうか。

当然、共鳴を起こさない音叉だってある。

2012/05/23 (水) 10:10:14 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

御意!だんだん私の好みの話になってきた。もっともっとお話を聞かせて~~~\(^o^)/

2012/05/23 (水) 13:33:41 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

片割月さん、ご返信ありがとうございました。

>芸術とエンターテイメント、、カテゴライズ、、、

先日17日の初めのコメントにも少しかかせていただきましたが、 芸術を「自由」と仮定したとして、その「自由」は、「何でもあり」とは違うと私は思うのです(その境界も難しいと思いますが、社会生活における自由も 何でもやって良いという事ではありませんよね)、 芸術において いわゆる’受け’を殊更取り込むのは、「何でもあり」の方に属してしまうのかなといった思いがあります。

ただ、「楽しむ」「楽しませる」…にも色々あるとは思いますし、邪道と言われるものの中にも、価値あるものはあるとも私は思いますが、 ’受けねらい’は、邪道にすら入らない?どうなのでしょう?? 
でも考えてみますと、人間やはり共感したいといった思いもありますものね、
案外 思った以上に奥の深い問題かもしれません、
私にとって芸術における一つの課題にしておきます。

また、
・「芸術」の定義や「普遍性」の近しいものは存在するけれど、明確なものは現時点で無い、といえるのかもしれません。
・先の 芸術とエンターテイメントのカテゴリー分け等も、明確でないけれど、有るように思います。 

片割月さん、ghotiさん、バルタンさん、
新しさ、心の共鳴、エネルギー・・・、ですか! 素晴らしい着眼点と私も思います、

・新しいというのは、単に めあたらしい、めずらしいといった新しさではないのですよね。
・共鳴と、(安易な)共感は、別物 ともいえるのかも。

乗り物等の美、 また アスリート美、 時に意図せず 美を創出してしまうことがあるようにも思います。 この際は制作者が、やはり意図はしていないが無意識に それをつくり出す時、何らかの多大なエネルギーを使っていたのかもしれません。

この新しさや、心の共鳴、エネルギー…、 に関しても、興味深く 考え進めてみたいと思います。


とりとめない文章、ご容赦くださませ。






 

2012/05/23 (水) 17:45:57 | URL | ベリア #- [ 編集 ]

Re: 不自由の中の自由

ghoti様、いつも啓発される情報とコメント、ありがとうございます。

今回の内容も大変に参考になりました。

この内容も、いずれ新しい記事に引用したいと思います。

2012/05/23 (水) 23:12:10 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

Re: 心の共鳴

バルタン様ならではのユニークで理知的なコメントですね。

なるほど、と納得してしまいます。

> 当然、共鳴を起こさない音叉だってある。

ただ、これは、今は共鳴を起こさなくとも、未来に起こす可能性がありますね。

その時代の人々に共鳴を起こさなかったものが、後に大きな共鳴を起こした例はいくらでもあるように。

>視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚

これにプラスして「無意識の意識」も潜んでいるように思います。

唯識で言う、アラヤ識に近いものかもしれません。


人間の感覚の中で、芸術に最も関係の深い視覚と聴覚が最も「間違い、勘違い、錯覚」の多いと思います。

そこに芸術の難しさも潜んでいるように思います。

2012/05/23 (水) 23:19:56 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

ベリア様、こんばんは。

ベリア様も学生時代はこうした話しで夜もすがら過ごされた経験がありそうですね(#^.^#)

定義が難しい、区別が難しい、優劣が難しい、感動を受けるものもあれば、全然ピンと来ないものもある。。。

しかし、芸術は確かに存在する。。。

そして、人間は芸術無しでも生きて行けるのに、こんな込み入ったモノなど無くても生きて行けるのに、
それでも芸術を生み出した。。。

そういう不可思議な存在ですね。

私個人は、

芸術の美>技術的な美(機能美もここに入る)>自然の美

というランク付けをしています。

花や緑、山や海の美しさは格別です。しかし、例えば素晴らしい音楽から受ける感動、涙が流れ、身体がウチ震えるような感動には遥かに及ばないと思うからです。

もちろん、これも私の個人的見解に過ぎませんが(^。^;)

2012/05/23 (水) 23:30:14 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

色即是空、空即是色

ちなみに私は浄土真宗西本願寺派でありんす。

通った幼稚園は「アソカ幼稚園」

門前の小僧、習わぬお経を覚えるの世界ですな~~。

2012/05/24 (木) 08:09:35 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

ghoti

>ぶっちゃけ、人間のどんな活動も、行き着くところ、物質の化学反応。ただ生きるという意味では、単細胞生物が最強\(^o^)/<

科学の限界を理解しているのならこういう極論の言葉は出ないのですよ。
いかなる理由があろうともね。

頭の中で理解しているつもりになっているだけで、その実は理解し切れていないから、極論で書けるということです。

私の挙げた疑問点に関しての明確な回答は,ghotiさん自身も認められているように返すことは出来ないでしょう。

索いう部分まで思考を深めた上で、意識や思考も化学反応だと説明が出来るのであれば、微妙な問題だという反論を返さないのですよ。

あらゆる可能性を模索する。

ghotiさんの見方は見方として、全てを否定しているわけではないのですよ。

私との大きな違いは、ghotiさんは他人の書いた書物の引用が多く、私はそういう書物を読んだ上での自己の意見を書くということです。

芸術とは自己の表現方法にこだわることだと思っていますから。

こういう投稿文も一つの芸術であり学術であり文化に入ると思っていますから。

2012/05/24 (木) 13:20:05 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re:心の共鳴 Re:ghoti

>個々の心の音叉は周波数がそれぞれ違う。
>芸術性が高いというのは、多くの帯域に影響を与えることが出来るものといえるのではないだろうか。

御意!
芸術は、人の心を傷つけることで感動させる。一見逆説的なことに、すぐれた芸術作品には、どこか、人の心を傷つけるところがある。(中略)その瞬間に、何かが自分の奥深くまで入り込んで来たような気がする。ああ、やられたと思う。『脳と仮想』茂木健一郎P79
を読んで、バルタンさんのコメントを思い出しました。

>私との大きな違いは、ghotiさんは他人の書いた書物の引用が多く、私はそういう書物を読んだ上での自己の意見を書くということです。
引用は私のスタイルです。私の言葉より、優れた先人たちの言葉の方が、適切だと思うから引用するのです。自分の考えは、既に誰かが語ったものであるので、それを確認する意味で、以前読んだ本(や記事)を探せる範囲で探して引用するわけです。その作業を繰り返すことによって自分の考えをより確かなものにできると私は考えています。それに、自分の考えより他人の考えの方が面白い場合が多いですし(^_-)

あと、ほかの理由ですが、次の記事のblog主さんと考え方が同じです。ご参考まで。
引用テキストの多いぼくの日記でカエサルの「人は自分の見たいものしか見ない」という話をしてみるよ - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記。さんhttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070624/kaesaru

引用のない場合は、探せ(さ)なかったと思ってください。

追記2012.05.25/17:44
あと、関連ということで。自分の言葉というものがあるとすれば、それは自分の経験談くらいでしょうかね。追記2012.05.25/19:13読書も広い意味では経験談でしょうけれど。追記終了

追記2012.05.25/18:30
個性とは他人と異なることではなく、まずどれだけ周囲の人と価値観を共有できるか、というところに分母がある。-宮崎駿http://twitter.com/School_of_Arts/status/205941943165927424
これも、バルタンさんが言う、心の共鳴、につながりますね!

同じとか違うとか。対象の類似に注目するか差異に注目するかで見解が違ってくる、ということだと思います。http://twitter.com/ghoti_sousama/status/205784565028102145

2012/05/25 (金) 16:21:38 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

スタイルの違い

私はそんな本を読んでも全てに同意するということはまずありません。

必ずどこかに「この部分は納得がいかないな~~」という部分があります。

特に引用部分のみの場合だと、文脈全体を通してつかまないとその全貌は正確には把握できません。

紹介という意味や、自身の論拠の下となす情報源としてでは必要なものですから、読んだことの無い人には有益な価値を持つとは思います。

けれども、私が危惧するのはインターネットの普及のおかげで、つまみ食いの知識の人が多くなったということです。

原発問題に関してもそうですが、部分的な知識では全体像がつかめずに間違った判断をします。

ghotiさん自身は、そのスタイルから文脈を見誤ることはないでしょうけれども、多くの人がそこまで実際に目を通すかというのが、一番の懸念材料なのです。

引用部分のみが一人歩きする危険性は充分に注意しなければならないので、私は作者の意図を間違えるかもしれないので、引用をあまり使いません。

使う場合はほとんどの人が、中身を誤解をしないだろうという場合に限定しています。

ghotiさんのようなスタイルは「間違っている」といっている意味ではありません。

それも表現方法の一つです。

引用することで主旨が明確になるのであれば、自分より著名な人のものを持ち出したり、出版物を持ち出すのは問題視はしません。

ただ、その場合でも作者の望む方向性というのは必ず潜んでいるということです。

自分が訴えたいことがあるからこそ文章にすると思っています。

それは私の文章にしても同じです。

その点においてどんな文章も中立性は無く、特定のバイオスを持っているといえます。

2012/05/25 (金) 21:50:11 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

追記

ステップシークエンスの勉強のようなものは、ああいう手法でなければ出来ません。
あれも一つの創作です。

引用することから新たな価値観を生み出す。


投稿のスタイルで、もう一つの違いは編集機能を使用しない事です。

一度放った矢は元には戻らない。
私は、編集機能の利便さから、その点に対する警戒心が薄れることを自分に戒めるためにあまり使用しません。

過ちは過ちとして残す。
感情の起伏から来るものであれば、書いた本人には一番理解できている間違いだからです。

ghotiさんは、削除せずに抹消線を使用しているので、そういう配慮はしているとは思います。

2012/05/25 (金) 22:10:39 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re:スタイルの違い

>私はそんな本を読んでも全てに同意するということはまずありません。
>必ずどこかに「この部分は納得がいかないな~~」という部分があります。

私の場合は、自分の見聞を広げる為に、しかも、読んだ本の参考文献や書評等で気に入った人の本しか読みませんので、同意できない、とするものはまずなく、あったとしても、自分の考えより良いので自分の考えを改めるのが常です。

>特に引用部分のみの場合だと、文脈全体を通してつかまないとその全貌は正確には把握できません。
御意!

>けれども、私が危惧するのはインターネットの普及のおかげで、つまみ食いの知識の人が多くなったということです。
原発問題に関してもそうですが、部分的な知識では全体像がつかめずに間違った判断をします。
ghotiさん自身は、そのスタイルから文脈を見誤ることはないでしょうけれども、多くの人がそこまで実際に目を通すかというのが、一番の懸念材料なのです。

確かに、その傾向は促進されたと思いますが、バルタンさんも承知していると思いますが、インターネット以前に専門家あるいは特にその分野に関心のある人でない限り、摘み食いの理解でしかないと思います。人間の脳の常として新たな情報は既存の脳内情報によって処理されます。いわゆる思考の節約です。ですので、インターネットだからといって特に懸念はしておりません。「動員の革命」という本がありますが、革命はいつの時代にもありました。活版印刷による書物の普及も、(インターネットと同じような)役割を果たしたと指摘する人もいます。出典は失念しましたが。「声の文化と文字の文化」です。すみません、引用箇所を探したのですが見つかりませんでした。別の文献のようです(~_~;)

>引用することで主旨が明確になるのであれば、自分より著名な人のものを持ち出したり、出版物を持ち出すのは問題視はしません。
ただ、その場合でも作者の望む方向性というのは必ず潜んでいるということです。

メッセージとテクスト。最近の傾向として作者の意図が読者に正確に伝わることは稀で、というのが通説です。メッセージが伝わるか伝わらないかどう伝わるかは、メッセージそのものより、読者の脳に依存する度合いが大きいので、私の場合は、引用するより、引用しないことが、バルタンさんほど、大事なこととは思いません。それに、自分の書きたいことは書きたいこととして引用文と合わせて書いてますし・・・。

>自分が訴えたいことがあるからこそ文章にすると思っています。
それは私の文章にしても同じです。
その点においてどんな文章も中立性は無く、特定のバイオスを持っているといえます。

全く同感です!

>過ちは過ちとして残す。
感情の起伏から来るものであれば、書いた本人には一番理解できている間違いだからです。
全く同感です。

>ghotiさんは、削除せずに抹消線を使用しているので、そういう配慮はしているとは思います。
ご理解いただき、ありがとうございます<m(__)m>

2012/05/25 (金) 23:22:14 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

本筋からは外れますが

>活版印刷による書物の普及も、(インターネットと同じような)役割を果たしたと指摘する人もいます。<

この部分は確かにあります。

というよりも情報というものはそういう危うさを含んでいます。
それは口コミでも同じです。

ただ、口コミやインターネットとの違いは、一度世に出ると簡単には削除したり出来ず、情報元がはっきりとしている点が、インターネットや口コミとの大きな違いです。

インターネットの匿名性による利便性の影で、そういう情報のあやふやさはなおざりにされてきたのが現実です。

そこでは発信元の責任よりも、受信側の責任が重大になります。

情報の精度を見極めるのが常に受け手側ですが、その比重がより大きくなっているのが現代のネット社会です。

>読者の脳に依存する度合いが大きい<

というのはまさにそういう現実です。

けれどもそれに胡坐を欠いていては情報の発信元として、正しい姿勢といえるのかどうかはまた別の問題だと考えています。

建設関係では、それこそ1から教えなければ、仕事のわからないものもいます。
けれども、万一事故がおきれば、そういう人が起こした事故でも現場の責任者の責任になります。
人命がかかっているから当然のことではありますけどね。
だから、手間暇はかかっても、1から指導することになります。

ネットでの情報の発信もそういう面があると私は思っています。

2012/05/26 (土) 00:27:45 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

ghoti様とバルタン様へ

多少は感情的になることはあっても、議論は大いに結構ですので、私に遠慮なさることはありません(笑)

お二人が自分のブログで議論をおやりにならず、私のブログでなさる所が愉快です(-^〇^-)

お二人とも、お互い、持論があり、迫力もありますので、花火が散ることもありましょう。

あらかじめ、相手の癖や好み等、特徴を心得ていれば、それなりの対応もありますし、言い方に囚われずに中身だけで議論は出来ますね。

お仕事上の議論ではないので、なるべくは楽しく、時にはユーモアも良いですね。


2012/05/26 (土) 22:21:12 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

Re:ghoti様とバルタン様へ

>お二人が自分のブログで議論をおやりにならず、私のブログでなさる所が愉快です(-^〇^-)
そう言っていただけて、ホッとしております(-_-;)

>あらかじめ、相手の癖や好み等、特徴を心得ていれば、それなりの対応もありますし、言い方に囚われずに中身だけで議論は出来ますね。
ですね。でもまあ、今回、本音をぶつけ合って、敵を知り己を知ったわけですから、百戦危うからず、です(^_-)

2012/05/27 (日) 02:01:46 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

どや顔理論

なるほどと思ったので貼っておきます(^_-)
われわれは無意識なものに感動はするけれど、意識的なものには感動したりしない
http://gqjapan.jp/2012/06/01/historyofextravagance/  

2012/06/03 (日) 18:59:50 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

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Author:片割月
和歌を愛し、音楽を愛し、花を愛し、フィギュアスケートが大好きで、歴史・社会・文学が大好きで、ジョン・レノン、八代亜紀、ちあきなおみが大好きで、クリント・イーストウッドと映画も好きで、皮肉とユーモアも好きな変わり者アラフォー熟女ですが、よろしくお願いします。
最近は体力をつける為に、休みの日はえっちらおっちらとミニハイキングに勤しんでいます。

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