音楽とその美について






アントン・ヴェーベルン作曲「弦楽四重奏の為の5つの楽章」(1909年)

音楽から「感情表現、描写的表現」を削ぎ落とすと、このような音楽になるのだろうか。私はこのような音楽もそれなりに楽しむが、あくまで「それなり」でしかない。何十回聴いても、どこか非音楽的な違和感が拭えない。しかし、ヴェーベルンの音楽は極めて斬新的なものとして、音楽家からは非常に高い評価を受けてきたのである。

ghoti様がコメント欄で紹介して頂いた非常に興味深い内容をお借りして、音楽の美を探るヒントとしたい。

引用開始。

音楽の美は形式にある
http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont97/beauty/beauty01.htm
以下はその主要部分。

<国安>
音楽の美を考えるとき、まず音楽を歌と器楽に分ける必要があります。器楽で表現する美しさというのは、洋の東西を問わずフォルム、形式に基づいています。例えば、インド、中国、インドネシア、イスラムの、いわゆる古典音楽、それぞれの民族でのクラシックも、あれはフォルムですね。それに対して歌で問題になるのは美というより、どちらかというと感動ですね。西洋が音楽の中心にしてきたのは器楽ですから、器楽を芸術として聞くときに感動はむしろじゃまで、感動が入ったら芸術を芸術として聞いてないというので、感動は否定されるのです。例えば、ベートーベンを感動して聞いたら、それは感情享受と言いまして芸術享受ではないと、西洋から叱られてしまうのです。大抵、われわれは感動することが音楽を聞くことだと思ってしまいますが、これは日本人的なのです。西洋では感動は美ではない。むしろ静観、コンテンプレーション(凝視)、冷たく突き放してみる、でないと美はわからないというのが、西洋の美なのです。それは日本人はできない。伝統的に、西洋で美しさというのは聞くものでなく見るものなのです。だからひとことで言ったら、美とはフォルム、形式である、音楽の美しさがわかりたかったら聞くのではなく、心の目で音楽の形を見なさいということになります。

<加我>
われわれ素人がクラシック音楽を聞くのとだいぶ違いますね。

<国安>
普通の人が聞いているのは、別の言葉で「快適」などに置き換えられるのであり、それは美とは関係ないなんて言われてしまいます。

<加我>
クラシック音楽の作曲家本人もそう思っているのですか。

<国安>
例えば、バッハなどは、あのころは芸術という考え方はないものですから、自分を学者だと思っています。フーガという西洋のクラシック音楽のフォルムの基本とも言える音楽形式がありますが、これを作曲することは学問だと思われていました。バッハはフーガの大家ですから。

<加我>
そうですか。

<国安>
さらに言うと、西洋人に言わせると、感動には2つあって日本人の感動というのは「弱々しい感動」、つまりお涙ちょうだいの「感傷」じゃないかと言うのです。

<加我>
ああ、なるほどね。

<国安>
演歌は涙とわかれですか。あれは感動とは言わないで感傷ですね。西洋音楽に関しては日本に入ってきてから100年以上たっているわけですが、日本人の聞き方は、やはり西洋人の聞き方とは違うのですね。この音楽の聞き方の違いを、随分、昔のことですがベストセラーになった角田さんの「日本人の脳」などから、多くの人は脳の違いで説明しようとしてしまったわけです。

引用終わり。

これと似たような発言が他にいくつもあるので、列記してみよう。

「音楽美論(1854年)」(渡辺護訳・岩波文庫)を書いた音楽評論家、エドゥアルト・ハンスリックの言葉。
「これまで音楽と言えば、技術的、論理的な側面から極めて無味乾燥に語られるか、大げさな言葉を使って極めて抒情的、感傷的に語られるかのいずれかでしかなかった」
「作曲者がその時に持っていた感情と、実際に作られた音楽が表現するものの間に、直接の関係はないのではないか」
「聴覚情報が感情に変換され、ある精神状態を作るにいたるまでの生理学的過程を証明することは出来ない。科学がそれを証明することを期待してはいけない」

チャイコフスキーの言葉。
「創造性豊かな芸術家であれば、作品を媒介にして自らの感情を表現出来る、自分の感動を人に伝えることが出来る…そう思う人は多いが、それは大きな間違いである。感情は、悲しみであれ喜びであれ、あとから振り返って表現することしか出来ないのだ」

ストラヴィンスキーの言葉。
「私は、音楽はその本質からして、感情であれ態度であれ、心理状態であれ自然現象であれ、何一つ表現することは出来ないと考えている。表現は、これまで音楽の本質的特性であったためしはなかった」


これらの発言の背景には、ベートーヴェン以降、音楽が「英雄だの悲劇だの愛だのと」やたらと文学的に準えられ、それが音楽の本質であるかのように語られることへの批判、反発があるのであろう。

確かにそうかもしれない。

しかし、ヴェーベルンの無調音楽から非音楽的な虚ろな響きを感じ、砂を噛むような味気なさをを覚えるのは何故だろうか?この音楽が一部の専門家やマニアの間でしか聴かれないのは、作品の優劣という次元ではなく、人間の音に対する認知能力との乖離を感じるからではないだろうか?

また、音楽から聴き手が何らかの感情を聴くのもまた事実ではないだろうか?そこに音楽の魅力、音楽を聴く喜びがあるのではないだろうか?

ただ、それは「悲しい、楽しい、切ない、逞しい、身体を動かしたくなる興奮」等の安易な表現で説明がつくものでないことも事実である。

音楽から人間的感情や肉体的興奮が全て削ぎ落されたら、それはもはや、音のパズル、音の数学に過ぎないのではないだろうか?

西洋音楽の長い歴史を受け止めつつ、前衛的な音楽家には「もはや聴衆を相手にせず」「聴衆から開放され、自由にならなければ真の新しい音楽の芸術は創造し得ない」とする人達も少なくないようだ。

以上はずっと昔から語られて来たことであるが、今も「解決」していない問題だ。


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2012.05.19 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 音楽



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片割月

Author:片割月
和歌を愛し、音楽を愛し、花を愛し、フィギュアスケートが大好きで、歴史・社会・文学が大好きで、ジョン・レノン、八代亜紀、ちあきなおみが大好きで、クリント・イーストウッドと映画も好きで、皮肉とユーモアも好きな変わり者アラフォー熟女ですが、よろしくお願いします。
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