芸術とそうでないものを区別する試み




1.芸術は人間の活動として「自己目的」な特性があり、「実用目的」なもの、例えば、政治、ビジネス、戦争、法律などと区別出来る。
しかし、同じく自己目的な活動である学問、遊戯、レジャーとは区別が無い。


2.芸術は伝達のシステム・メカニズムを持つ。つまり、発信者(創造者)→信号→受信者(鑑賞者)という構造を持つという点で、スポーツ等の遊戯とは区別出来る。
しかし、同じ伝達の構造を持つ行為である学問、レジャー、メディアとは区別が無い。

3.芸術は人間の心・精神に内在する象徴である。履き古した靴や聖母マリアの絵は単に道具や一人の女性を描いたものではない。この点では学問やメディアとは区別される。
しかし、レジャーや一般的な象徴(バラが愛の象徴とか)とは区別が無い。

4.芸術は人間の精神的活動である。この点で、一般的な象徴とは区別出来る。
しかし、レジャーとは区別が無い。

5.芸術はその内容に高い精神的価値を持つ。この点で普通の実利的な活動やレジャーとは区別出来る。
しかし、学問や宗教とは区別が無い。


このように畳み込んで行けば、芸術を他と区別するものが徐々に浮き彫りにされて行く可能性があるように思う。

もちろん、これによっても客観的・絶対的には完全に区別され得ない。

しかしながら、芸術の全てを単なる趣味や感性の世界に相対化させ、或いは貶めるのではなく、そこに人間の崇高な精神的活動や普遍性・永遠性への祈りが潜んでいること…これらの存在に対する謙虚な視点があるべきはあるまいか。

それは、仮にその個人が信仰を持たぬとしても、神仏を尊ぶ謙譲さを失ってはならぬのと同じ事だと言えまいか。
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2012.07.22 | | コメント(24) | トラックバック(0) | 歴史・文化



コメント

芸術とはボランティア

芸術を崇高なものとすれば、するほど堕落が始まると思うのだけどね?

崇高なのは利を求めず、自己欲求を満たそうとする気持ちにあると考えるのだけれどね。

ちょうどボランティアを前面に押し立てながら、その裏で税制上の優遇措置によって甘い汁を吸うものが暗躍するのと同じように、崇高なもの気高いものとすればするほどその裏で甘い汁を吸おうとするものが生まれてくる。

私が芸術を必要以上に高く評価したがらないのは、経済と結びつくことによってその数構成が失われる可能性が高いことを懸念するからだ。


クラシック音楽の高名な演奏家や指揮者の演奏会がどんな収入階級の人に対してもおなじ金額というのは本来はおかしいと思える。

芸術が真に崇高であるのであれば、数多くの人に触れる機会を均等に与えるよう配慮すべきで、所得に応じて金額を変えるという手段があってもおかしくは無い。


けれどもそういう試みをする事は無い。

結局は、価値観を高いものとすることによって利を生み出そうとする者が存在する限り、芸術が至高のものだとか崇高なものだとかいう見方にはなら無いだろうな。


2012/07/22 (日) 00:23:24 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re: 芸術とはボランティア

> 芸術を崇高なものとすれば、するほど堕落が始まると思うのだけどね?

それは芸術をダシにして甘い汁を吸おうとしている輩には当て嵌るでしょう。

しかし、創造者がそのような信念を持つこと自体は悪くないと思います。
ベートーヴェンはそうでした。
だからと言って、彼の音楽そのものは何ら堕落はしていません。

>崇高なのは利を求めず、自己欲求を満たそうとする気持ちにあると考えるのだけれどね。

同感です。ただし、自己欲求の中にどんな思想や信念があるかにもよると思います。

芸術とて人間のリアルな活動ですから、社会的制約とは無縁ではない。

資本の論理に堕落する「芸術家」(それはゲイジュツではなくケイジュツね)もいるでしょう。

>価値観を高いものとすることによって利を生み出そうとする者が存在する限り、芸術が至高のものだとか崇高なものだとかいう見方にはなら無いだろうな。

しかし、事実、私達は芸術に触れて、言い知れぬ深い感動を覚えるではないですか?

2012/07/22 (日) 00:52:14 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

2*Re: 芸術とはボランティア

バルタンさん おはようございます

>価値観を高いものとすることによって利を生み出そうとする者が存在する限り、芸術が至高のものだとか崇高なものだとかいう見方にはなら無いだろうな。

最高の芸術はお金だと思う。100億円とゴッホの絵がもらえるとしたら、どっちに感動するのだろう!?どっちが生きる原動力になるのだろう!?

芸術作品を作り出す人も鑑賞する人も個別的だがそこに感じているものは個別(具体)を通した普遍(抽象)だと思う。それを図形で示せるといいのだが・・・。

太田由希奈さんのスピンの美しさ、あの形(の流れ)。肉体の目を通して心の目は何を見たのだろう!?それを図形で示せるといいのだが・・・。

肉筆はひとつとして同じものはない。だけど、同じように読める。肉体の目は違いを認識しているが、心の目は同じものとしてみなす。心の目はそこに何を見ているのだろうか!?

追記2012.07.22/09:33
心を動かされるもの
科学・宗教・学問(真) 納得の体系 知的探求 
芸術(美)道徳・倫理(善) 価値の体系 美的探求 感情の回復 
笑い(真善美) 真善美それぞれの落差の体系 感情の回復 

分類はともかく(芸術は全てに通じている)

共通するものは何なんだろう!?発見の喜びか!?

芸術家 心の何かを形にする
鑑賞者 形に何かを感じる

何かとは!?

抽象絵画と具象絵画
音楽には具象も抽象もない?

追記2012.07.26/17:18
視覚(美術、文学)、聴覚(音楽、文学)に関する芸術はあるが、味覚、臭覚、触覚に関する芸術はないのはどういうわけか!?

2012/07/22 (日) 08:09:45 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

芸術とは、自分の心の赴くままにする行為

片割月様
こんにちわ。前にオーベルニュの歌のエントリーで投稿した者です。
芸術とは、自分で意識して行うものでなく、結果として、また(長いとき)時が判断するもののように思います。バッハにしても、教会の召使として、自分ができる職能(メティエ)で仕えたにすぎず、本人はアートだと思っていなかった。
モーツアルトが、芸術を意識するのは、召使という身分から脱したい(脱した)ときであり、自らの自由を得るために、召使との職分との識別基準として、ことさら強調しなければならなかったのが芸術だった。
私はギドン・クレメルの大ファンですが、彼の自伝などを読むと、芸術を強調したのは、強権的なイデオロギー的な旧ソ連の音楽官僚と闘う際であり、西側に脱出した後は、今度は音楽マネージメント・音楽企業との闘争であると、そして闘争の理由として「芸術」を持ち出しています。
ここから、自分の精神の赴くままに、自分の能力を最大に発揮しようとする意思、その結果として結実したものが、他者に感動を与える(心をつかみ、一時の喜びではなく、日常の生活さえも左右する)ものが、芸術ではないかと思うのです。
残念ながら、おもむくまま、好き勝手にやった結果、あるいは行った人間の99.99…%が、他者には感動を与えるどころか、どうでもよいこと(もの)になるでしょう。これを知りながら、無茶を承知で行動できる人が、長い年月を経た後に芸術家になる。
現在は金・資本の力が大きいでしょうが、過去のバッハやダ・ビンチも、封建領主や教会の圧制の下にいたにもかかわらず(バッハは骨の髄まで召使でしたが)、今も生き続けていますので、金融資本が支配する現代でも、芸術は生み出され、未来でも生きつづける(と信じたいです)。
当方は、こうした暢気な気持ちでいるので、ザピーナッツやジュリーがいいなと感動し、モーツアルトやベルディのオペラ大好き(特に単純な大芝居的オペラ)、バレエの「くるみ割り…」、永井愛のユーモア演劇も大好きです。
ただ、情緒面々たる湿っぼい演歌だけは駄目なんです。水前寺清子の男歌は気持ちがよく好き(彼女はもっと活躍して欲しい)。ロマン派のクラシックも駄目なのですが、感情過多でもクレメルのブラームスならば、嘘ついて仕事をサボっても駆けつけたい。

また、寄らせてください。

2012/07/22 (日) 12:35:17 | URL | coucou #HYiaVYZ. [ 編集 ]

再度、お邪魔します。(大仕事が終わり、今日はほっとしているのものですから)
当方は大衆小説家大仏次郎が愛読書ですが(ものごころついたときは故人になっていましたがー一応書きたい 笑)、彼は『鞍馬天狗』シリーズや『帰郷』『宗方姉妹』などの小説は生活のために、他方、ノンフィクションの『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などは書きたいことを書いたと。後者は芸術品だと思うのですが、前者もそれに劣らず面白い。 とはいえ、やはり残るのはノンフィクションだと思います。『鞍馬天狗』などは当時の大衆の意識に沿っているので(迎合していると思う)、古臭い道徳観がクサイ。
片割月さんは、フィギュアの鑑識眼をお持ちのようですが、当方は高橋大輔選手の演技はぜんぜん駄目なのです(テレビで見ただけですが)。ロマン派のクラシック、感情過多の演歌を聴いたときと同じ気持ちになるのです。今のフィギュア全般がロマン派的ではないでしょうか。フィギュアの動画を見て感動したのは(と、言っても余り見ていないのですが 汗)、ベリーグッドマンのジャズナンバーですべる伊藤みどりさんでした。
ともあれ、大勢の人の心をつかむもの=普遍的なものイコール芸術ではないようにも感じています。

2012/07/22 (日) 13:07:49 | URL | coucou #HYiaVYZ. [ 編集 ]

Re: タイトルなし

coucou様、お久しぶりです。

>大仕事が終わり、今日はほっとして

それは充実した日々をお過ごしのようですね。ともあれ、お疲れ様です。

大仏次郎ですか。ああ、私はまだ一度も読んだことがありません。『天皇の世紀』には食指が動いたのですが、どうも決断がつきません。

私も大衆小説であれ芸術的小説であれ、同じように楽しんで読んでいます。
例えば、山田風太郎や柴田錬三郎の忍者やチャンバラなど、私が読んでも面白こと無類です。

>高橋大輔選手の演技はぜんぜん駄目

なるほど。お時間がありましたら、パトリック・チャンやブライアン・ジュベールの演技をご覧になることをお薦めいたします。

>ザピーナッツやジュリーがいいなと感動し、モーツアルトやベルディのオペラ大好き(特に単純な大芝居的オペラ)、バレエの「くるみ割り…」、永井愛のユーモア演劇も大好きです。
ただ、情緒面々たる湿っぼい演歌だけは駄目なんです。水前寺清子の男歌は気持ちがよく好き(彼女はもっと活躍して欲しい)。ロマン派のクラシックも駄目なのですが、感情過多でもクレメルのブラームスならば、嘘ついて仕事をサボっても駆けつけたい。

ヴェルディはともかく、チャイコフスキーはロマン派にどっぷりの楽風と思いますが?(^<^)
他のロマン派と違う何かを感じていらっしゃるのでしょうね。

私は情緒連綿たるロマン派も好きですし、古典派やドビュッシー以降の近代・現代音楽も好きです。
要するに、節操が無く気が多い方でして(^<^)

歌謡曲、演歌の趣味はcoucou様と少し違う、というより出された歌手の名前が古くて(^。^;)
ジュリーは聴きますけどね。

クレメルさん、今秋、来日公演がありますね。行かれるのですか?

東京サントリーホールでフランクのヴァイオリン・ソナタとチャイコフスキーの三重奏曲がありますね。
どうしようかな。。。
これは情緒連綿たる音楽の典型ですね(^Д^)
バッハとバルトークの無伴奏もありますが、こちらの曲よりはロマン派の方が好きかな。

2012/07/22 (日) 14:16:12 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

 芸術について、月さんのいいたいことは、ひとまずわかったと思います。

 霊感とかいういい方もありましたっけ。ある日、何か素晴らしいものを感じた人が、なんとかそれを表現したいと考える。あとは表現のテクニック。センスと地道な努力の積み重ねで、ついに感じたものを表現するに至る。・・・ これは尊敬に値するものだと思います。

 あらためて、好きな作品を残してくれた作者には、敬意と感謝を表したいと思います。

 ところで、芸術の堕落、というのは、ハテ・・・
 マーケティング的に、100点の商品を売り出すより、80点のものを量産する方がいい商売になる、とかいう発想のことでしょうか? 浮世離れした霊感より現実的な要求に対応する「職人」になってしまうことでしょうか? 
崇高な霊感(を追求しているうちは、堕落はないと思いますが。
(良質な消費財でなく、価値ある一品)

 また、霊感にとりつかれた人は、利を求めない、というより、そんなことを考えていられない、というほうが正しいように思います。 (もちろんお金は欲しいんだけど。) 

 さてそれで、私が前回、言いたかったのは、とはいえ、霊感は人間が感じるものであり、その作品を感じるのも人間なので、芸術の価値は人間次第、ということです。 ここでの月さんのメッセージは、個々人に依存しない芸術がある、という趣旨に思われ、私には「神は存在するのか」と問われているように感じられて、ズシリときました。

 よろしければ、バルタンさんの堕落論の補足をいただければ幸いです。

2012/07/24 (火) 06:18:01 | URL | MILLAN #- [ 編集 ]

MILLAN

>マーケティング的に、100点の商品を売り出すより、80点のものを量産する方がいい商売になる、とかいう発想のことでしょうか? 浮世離れした霊感より現実的な要求に対応する「職人」になってしまうことでしょうか? <

まさしくこのとおりです。

商業ベースにのる前ならば、自己の欲求の満足のみを追求できますが、ひとたび商業ベースに巻き込まれると、時間との制約などが発生し、なかなか個人の意志を貫くことが難しくなると思っています。

私のこの危惧している部分を、現実に回避しようとしている制作活動をしているアーティストとして、小椋桂さんがあげられると思います。

彼は、生活の糧を得る手段としては銀行員という手堅い本業を持ち、自己の制作活動が生業の主体となることを避けておられます。

そこから自由な発想が生まれ商業ベースの制約からの解放を成立させていると思えます。

中世の芸術家のように、生活の糧を得る手段を考える必要性が無いからこそ、芸術の崇高性は保たれると思います。

芸術とは、日常生活から切り離され、経済活動を離れたところで存在できるという贅沢な環境があって(精神的にということです)、始めて高い価値観をもてると思っています。

音楽や漫画(芸術として捉えない人もいるでしょうが、私の中では芸術に入ります。)など、商業ベースにのったために、その質の高さが劣化する傾向を私は感じます。

ミュージシャンの薬問題や生命短縮などは、要因の一つにその商業ベースの弊害がある気がします。

もっとも現在のように商業活動のタイムサイクルが早い現代だけでなく、過去にも自分の寿命を短くする人がいなかったわけではないので、それだけが要因ともいえないというのはあるのですけれどね。

2012/07/24 (火) 08:04:10 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

作る売る買う

商品の場合

作る人にとって、良いものは売れる       
売る人にとって、売れるものが良いもの    
買う人にとって、安いものが良いもの (追記:ごめん、人それぞれでした。つい自分の価値観を暴露してしまった(´▽`*)アハハ)

モノの価値はモノと人との関係性によって決まる。
(MILLANさんが同様のことを指摘されていたと思う。違っていたらごめんなさいorz)

ご参考 モノと人、モノとモノとの関係性
ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質』(小松攝郎訳・岩波文庫、1952 年)
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-72.html
我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。


作品(芸術)の場合

作る人にとって、作品が命
見る人にとって、作品が命

何が言いたいかというと、芸術について語ることと、芸術の外部性について語ることは別のこと。だと思うのです。前者と後者を関係付けるのはまた人それぞれだとは思います。

が、私は、芸術家にとって、芸術の外部性には関心がないと思います。(全くないとは言い切れません、私の大好きな小室哲哉さんが折り合いを付けるのも作家の仕事のうちと語っているのを聞いたことがあります。妥協は堕落とは違うと思います。中には堕落すると呼ぶ人もいるでしょう。ニーチェとワーグナーの決別にはそういった理由があったかもしれません。が、芸術とは無関係の話だと思います)。そういう意味で、MILLANさんの見解には同感です。>また、霊感にとりつかれた人は、利を求めない、というより、そんなことを考えていられない、というほうが正しいように思います。 (もちろんお金は欲しいんだけど。)  

一部の芸術の鑑賞者に見られる傾向として、外部性に関心をむけ過ぎるあまり、外部性を芸術の判断基準としてしまっているような気がします。グレン・グールドが演奏会を止めてしまった理由の一つに、鑑賞者の態度に失望があったと言われています。

グレン・グールド 孤独のアリア (ちくま学芸文庫)P11→本が見つからない(T_T)
実際コンサートホールという場所にあっては、音楽はめったに人の心には届かないと彼はすでに感じていた。うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる。


追記2012.07.24/11:36
MILLANさんが、片割月さんの説(問い)に対して

>個々人に依存しない芸術がある、という趣旨に思われ、私には「神は存在するのか」と問われているように感じられて、ズシリときました。

とコメントされてましたが、私の片割月さんの説(問い)をこう解釈しています。

普遍性とは芸術と人との関係性において等しく作用する何かを問うているのであって、人と独立して存在するもの(たとえば一神教の神とかイデアとか←これとて人間が作ったもので人間との関係性において存在するもの。私はそういう立場です(^_-)話がややこしくなるので取り消します)の普遍性(この場合は絶対的普遍性といった方が適切かも)とは違うような気がしてます。

2012/07/24 (火) 11:02:18 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

ghoti

芸術の普遍性とは何か?

この場合に芸術の外部とのかかわりなしには語れないと思うのだけどね?

作品を世にその存在を広報するという役割部分を画商とか画廊とかレコード会社など受け持つ。

彼らなしに、広く世間へと知らしめる事は不可能だと思う。

その点では必要不可欠な部分ではある。

けれども、その問屋的存在が、その存在意義を金銭的に必要以上に求めようとする場合、両者の立場が逆転する。

この類の例としてもっとも大きな存在が総合商社といえる。

彼ら自身は何も生み出さずに情報というものによって、多額の利益を生み出す。

芸術の価値観というのも、媒介が存在しなければ貨幣価値として形成される事は無い。

個人の価値観のみで形成されるのであれば、貨幣価値はそれぞれの経済状況に応じて変動する。

クラシックのコンサートに3万円出しても聴きに行くか、そのお金であまたのアマチュアバンドのコンサートを聴きに行くか?

相対的な価値観でしかないと思う。

そこに貨幣という統一基準で、作品や製作者の良し悪しに優劣をつけたがるシステムの下地がコンクールであったりもする。

技術の巧緻さと作品の意図の巧緻さとが調和が取れていないものでも、その斬新性で感動を呼び起こすものもある。

技術の高度さで感動を呼び起こすものもある。

私にはピカソの絵のよさは理解できない。

なるほど評論を聞くと、「そうなのか~~。へ~~」とは思っても、常に鑑賞をしていたい絵かと言うとそうではない。


もし金銭的に可能であるなら、ピカソとモネと同じ値段ならどちらを選ぶかといえば、モネを選ぶし、これにラッセンが加わるならばラッセンを選ぶ。

誰の絵が最も優れているかではなく、その絵を見て最も居心地の良い気分にさせてくれるというのが判断基準となる。

科学の普遍性は誰がやっても変わらないという点にある。

芸術作品の普遍性に科学と同じ定義の普遍性は求められない。


科学の論理の発明に関しても、いずれは誰かが行うというのと同じように芸術作品に関しても同じことが言えるとは思うけどね。

独創性を重要視する傾向が強いから、最初に編み出した人でなければ出来ないと思われがちだけれども、その点ではアインシュタインが相対性理論を生み出せたのと芸術作品が個性によって生み出されるというのも変わりはないと思う。

どちらも稀に見る才能の持ち主でなければ、到底その境地にはたどり着けない。

数学者や物理学者にとっては、整合性の取れた論理に破綻の無い数式が芸術に見える。


神のつくりたもうた奇跡(自然界の摂理)を数式という形で表現する。

これもまた一つの芸術といえる。

2012/07/24 (火) 11:57:04 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

おはようございます。レスありがとうございます。

>芸術の普遍性とは何か?
>この場合に芸術の外部とのかかわりなしには語れないと思うのだけどね?
    ・   
>相対的な価値観でしかないと思う。


一つ前のコメントでも書きましたが(行き違いになってしまったかもしれないので再度書きます)、
媒介者や鑑賞者が相対的な価値観でしかないというのには同意しますが、
その価値観に沿って、芸術家が作風をを変えることはあっても、普遍性は存在します。
芸術家も人間です。常に変わっていきます。普遍性自体が変わって行くのだと思います。

普遍性=絶対性とバルタンさんはお考えでしょうか!?

>科学の普遍性は誰がやっても変わらないという点にある。
   ・   
>これもまた一つの芸術といえる。


御意!

以下、恐縮ですが、
「芸術と真実と美と」(2012.07.15)でのコメントを再掲したいと思います。
http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-191.html#comment993
(P66-67要約)ゴッホは画商の倅。画廊に訪れる紳士淑女の鼻持ちならない態度に反感をもち「絵を売ることはうまく仕組んだ窃盗の一種だ 」といって家を追い出されてしまう。聖職者を目指すが伝道師の免許取れず(25歳)。その後、炭坑地帯で伝道師の真似事を6ヶ月するも飽きる。失意の中、ゴッホは他人のためではなく自己のために生きようと画家になる決意をする。この本の筆者は聖職者として伝えたかったことを絵に託した のではないかと推察しています。私もそんな気がします。そこで、以前、片割月さんが書かれた記事を思い出しました。千住博氏の言葉を紹介ビデオから引用します。

学生時代に戻ったつもりで芸術や美を語る③
http://poppy445.blog.fc2.com/blog-entry-152.html
芸術的行為は何かというと、自分の切実な想い(イマジネーション)を何とかして相手に伝えたい、と思うその心。これが生み出すモノのことを芸術という。

岡潔はこういいました『人間の建設』P72
言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起こるについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ、見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人といっておるのです。 (画像)http://dl.dropbox.com/u/410340/books/okakbs73.jpeg 

デカルトはこういいました。『方法序説・情念論』P24
我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(画像) http://dl.dropbox.com/u/410340/books/Discours24.jpeg

千住博切実な想い(イマジネーション)
岡潔言い表しにくいこと
デカルト少し発見しにくい真理

岡潔の言葉を借りれば、上の三つの言葉は、直観であり、それをなんとか伝えたい思うことが、情熱。情熱と直観を持った人が詩人。千住博の言葉を借りれば、イマジネーション(直観)をなんとか伝えたいと思う心(情熱)が、生み出すものが芸術。

そういった、イマジネーション(千住博)や直観(岡潔)、真理(デカルト)は、デカルト風に言えば、発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われる。要するに、芸術作品は、習慣や伝統や原子力発電所のように、たくさんの人の手によって作られたようなものとは違うと。バッハがいなかったならば、バッハの作品は現在過去未来存在しないであろう。似た作品はいくらでも存在しうると思われる。一方、相対性理論は、アインシュタインが作らなかったとしても、ほかの誰かが作っていた可能性があります。芸術と科学あるいは技術の違いはそこにあると思います。芸術の一つの側面ではあります。

追記2012.07.24/13:15 個性が普遍に通ずる 「人間の建設」P26
http://dl.dropbox.com/u/410340/books/okakbs26.jpeg
ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。一人一人みな違うから、不思議だと思います。
私も片割月さんもこの不思議な普遍性について語りたいのだと思います。片割月さん、違っていたらごめんなさい(^_-)

2012/07/24 (火) 12:52:44 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

普遍は不変に通じる

言葉の解釈の仕方が人によって違うだろうから、あえて私の普遍性の定義を書くと
「普遍性=不変性を内包するものでなければならない。」という見方だよ。

この不変性を科学は探求する。

そこから普遍性は生まれてくるというのが私の見方。

文系の方とはたぶんに相容れない部分がこの部分だろうね。

2012/07/24 (火) 13:53:33 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

バルタンさんへ

>「普遍性=不変性を内包するものでなければならない。」という見方だよ。

これは、一番最初に私がコメントした

肉筆はひとつとして同じものはない。だけど、同じように読める。肉体の目は違いを認識しているが、心の目は同じものとしてみなす。心の目はそこに何を見ているのだろうか!?

に通じるものがあると思われたので、コメントします。醜いアヒルの子の定理ってご存知ですか?白鳥も家鴨も数学的には区別がつかないという定理。ある人には区別がつくがある人には区別がつかない。なぜか!?人間は価値観によって物事を見ているからだと思います。

人間の肌の違いにこだわる人は白人黒人黄人と区別します。金持ちか否かで区別する人、善人悪人で区別する人もいます。でも同じ人間です。カエサルの「人は自分の見たいものしか見ない」という言葉を思い出します。

しかし、筆跡の違う文字を、個人の価値観を超えて、同じ文字とみなす行為(いわば共同価値観)、は確かに存在します。

そのことを指してバルタンさんは、普遍性=不変性を内包するもの、とおっしゃったのでしょうか!?

2012/07/24 (火) 15:03:51 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

不変とは

絶対に変わらないものということ。

どんな人が見ようが、同じにしか見えない。

科学の場合、気圧や温度や密度などの変化があってもそれは状態の変化であり、根源を支配している原理はひとつしかない。

それはエネルギーという形で表される。

例えば「光の速さは変わらない」というのが相対性原理の根本をなすが、それはあくまでも光以上の速さを持つものを計測する術がないから保持されている原理でもある。


なぜなら人間の測定機械の原理は全て電子によって機能しているから、電子の速さ以上のものを測定することが出来ない。


前提とする条件の絞込みによって、特定条件下における不変性が確立される。

普遍性とは、この特定条件下という限定条件をはずして成立するものといえる。

特殊相対性理論から一般相対性理論へと展開されたように、前提条件の変化に応じて、その中身が変わるといえる。

芸術の場合は、それが時代背景や文化背景であることが多い。

古来日本での美女は、黒髪のつややかなこと、髪の長いことが美女の条件とされた時代がある。

同様にローマやギリシャでもその時代によって美の基準が変わっている。

芸術が美だけではないにしても、美という観点でいうならば、時代を超えた普遍性を持つ美というものの定義は難しい。

芸術における普遍性の定義の難しさは、何を基準とする価値観で求めるのか?という前提条件の絞込みの難しさでもあると考える。

2012/07/24 (火) 15:37:37 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

筆跡に関して

>筆跡の違う文字を、個人の価値観を超えて、同じ文字とみなす行為(いわば共同価値観)、は確かに存在します。 <


機能的価値観と別の価値観という意味での評価は確かに存在する。
けれども元来、文字というのは情報伝達記録の手段であり、知識の共有化、記録化をなすために発明された。

機能がまずあって、その後で付加価値的に筆跡に対する評価が生まれたといえる。

その評価も当初は、おそらくは小学生の頃、留めやはねが違っていただけで、丸がもらえなかったように、完全にまねることから始まっていると考えられる。

これが楷書の段階で、そこから行書、草書とすすみ、文字の意味が理解できるかよりも、運筆そのものに対しての価値観が生まれる。

そこでは本来文字の持つ情報伝達としての機能性は非常に薄まっている。

問題は文字の機能に目を向けるのか?それともそれ以外の部分に意味を見出すのかということで、これも価値観の違いといえると思う。

職業柄、実用性の乏しいものにはあまり価値観を見出さないので達筆と呼ばれる人の文字でも、なんと書いてあるのかが判読できなければ、私にとっては無価値なものとなる。

芸術の価値観というのもそういうものに近いと私は考える。

2012/07/24 (火) 15:51:22 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re:不変とは

バルタンさん 示唆的なコメントありがとうございます

>どんな人が見ようが、同じにしか見えない。

感覚について数学で記述できるものということですね?
視覚について、速さ、色は、可能。形は幾何的図形として一部可能。それが美しいと思う感覚はまだ数学で表せない(フィボナッチ数列、フラクタル図形はとりあえず美しいという程度)。
聴覚について、速さ、高さ、大きさは可能。美しさについては、ピタゴラス音律などほんの少し可能。倍音とか。カノン進行とか・・・ほんの少し可能。曲全体となると至難の技。
触覚について、圧力、温度は可能。美しさ(心地よさ)はまだ未可能。
味覚について、未可能。旨みとか、ある程度物質的に説明される程度。物質も数学的に記述されるのだと思うが、私はよく知らない。臭覚についても同様。

芸術的美感のような高次機能感覚は、まだまだこれからだと思われるがよくわからない。いずれにして、人間の感覚について、数学的に記述できるものはごく限られていうる。というかほとんど記述できない。

アインシュタインが、この世界について最も理解できないことは、それが(数学的に)理解できるということである、というようなことを言ったそうですが、数学的に記述できることのほうができないことより不思議なのだと思います。

そういうわけで、

>普遍性とは、この特定条件下という限定条件をはずして成立するものといえる。
>特殊相対性理論から一般相対性理論へと展開されたように、前提条件の変化に応じて、その中身が変わるといえる。
>同様にローマやギリシャでもその時代によって美の基準が変わっている。


測り方の工夫(より適切なルールの発見)によって、数学による量化を期待したいです。感覚として確かにソレがあると思われるからです。

ご参考 数量化と視覚化と その一 感覚と感情と言葉と
http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/05/blog-post_6366.html
こうした操作は、長さをはかる場合には容易に実行できる。(中略)だが、硬さや熱さ、速度や加速度となると--いったい、どうやって数量化すれば よいのだろうか?(中略)たとえば、14世紀のオックスフォード大学マートン・カレッジの学者たちは、ものの大きさだけでなく運動や光、熱さや色といった とらえどころのない性質も計量する価値があると考えるにいたるや、その考えをおしすすめ、さらに飛躍して、確実さや徳や優美さといった性質まで数量化しよ うと試みた。

たしかに、温度計が発明される以前に熱さを計量する方法を考え出せるのであれば、確実さや徳や優美さを数量化の対象から除外しなくてはならない理由はないだろう。

2012/07/24 (火) 17:53:35 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

ghotiさんへ

重いな~。
せっかくの参考文献ではあるけれども、ADSLの10年前のPCでは当時最先端であっても重過ぎる。

私にとってはアドレスだけの方が調べやすくて快適なんだけどね。

これも価値観の違いから生まれるとも考えられる。

2012/07/24 (火) 19:38:56 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

MILLAN様、こんばんは。


名前は出しませんが、純文学を志していた小説家が、たぶん、生活の為もあったのでしょうけど、

官能小説の類を書き、事実売れたので益々…そして純文学を止めた、というのを堕落の例と考えています。

2012/07/24 (火) 21:00:13 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

うぷぷぷ

それ誰だかわかるよ~~(笑)

でも私の下半身は芸術だと認めているが(笑)

2012/07/24 (火) 21:23:49 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

芸術といっても

その範囲は広い。

絵画の中では普遍的と思われても、音楽の中ではそうではないということも考えられる。

彫刻でもそうだし、対象をもう少し狭めた方が良いような気がするのだけど?

2012/07/24 (火) 21:29:59 | URL | バルタントモゾウ #- [ 編集 ]

Re: うぷぷぷ

> でも私の下半身は芸術だと認めているが(笑)

バルタン星人にとっては、はめりんこのお話しも芸術かと。

スッチーのコスプレに興奮する某市長殿と相通じるでありんすな。

あちきのようなコリン星人には理解不能でありんす(^Д^)

2012/07/24 (火) 21:33:39 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

>官能小説の類を書き、事実売れたので益々…そして純文学を止めた

もともと書くべきものを持っていなかったのでしょうね。
恋に恋しているだけで、真実の愛にはたどりつかない、という類でしょうか。

ところで、官能小説ってくだらないのがほとんどですよね。こんなんなら、オレがもっとグッとくるのを書いてやる、と考えた時期があったなあ。 もはや、そんな気は失せましたが・・・。 
(作品を創造するためと称して遊びまくらないといかんかね?)

2012/07/25 (水) 05:51:56 | URL | MILLAN #- [ 編集 ]

Re: タイトルなし

MILLAN様、こんばんは。

>(作品を創造するためと称して遊びまくらないといかんかね?)

吉原の遊女、小紫とも称したわちきがアドバイスいたしんしょう。

その点に関しては、キャバクラの帝王、ことghoti様が良くご存知のようですよ(^v^)

2012/07/25 (水) 21:48:41 | URL | 片割月 #- [ 編集 ]

2*Re: タイトルなし

片割月さん MILLANさん こんばんは

そう言う意味では、九鬼周造はんは大したもんですな。
『「いき」の構造』という名著をちゃーんと残しとりなはる\(^o^)/

2012/07/25 (水) 22:59:57 | URL | ghoti #/Jidnjo. [ 編集 ]

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片割月

Author:片割月
和歌を愛し、音楽を愛し、花を愛し、フィギュアスケートが大好きで、歴史・社会・文学が大好きで、ジョン・レノン、八代亜紀、ちあきなおみが大好きで、クリント・イーストウッドと映画も好きで、皮肉とユーモアも好きな変わり者アラフォー熟女ですが、よろしくお願いします。
最近は体力をつける為に、休みの日はえっちらおっちらとミニハイキングに勤しんでいます。

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