アリアドネの糸


桜桃とキリスト―もう一つの太宰治伝 (文春文庫)桜桃とキリスト―もう一つの太宰治伝 (文春文庫)
(2005/03)
長部 日出雄

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私は「自伝」ものを読むのが好きだ。小学校の4年~中学1年の頃に、偉大な文学者、音楽家、政治家、科学者の伝記に「凄いなあ、偉いなあ、私には出来ないなあ」と感激しながら読んだのを忘れられない。伝記をたくさん読むよう薦めたのが母だったか担任の先生かは忘れたが。その御陰で夏目漱石を読んだり、ベートーヴェンの音楽を聴くようになったのだから、子供の頃の影響というのは大きい。

そこで太宰治である。この人は子供用の伝記には絶対にならない。それはそうだ。自殺(未遂)は繰り返すわ、立派な奥様がいながら何人もの愛人をつくり、子供までつくってしまい、挙句の果てには愛人の一人と心中するわ、子供用の「伝記」などもっての外であろう。しかし、教科書に「走れメロス」は載る。教師はこの美しい友情物語を生徒に読ませ、太宰治の人生については慎重にスルーする。しかし、昔の先生達の時代はともかく、私達の時代には子供ながらも太宰治がどこぞの川で女性と心中したことくらい薄々知っていましたけどね。

私は「走れメロス」よりも「女生徒」の方がずっと面白かった。これは「そう、そう、わかる!」って頷き、身近に感じながら読んだ。高校時代に「人間失格」を読み、暗くてイヤな印象だけが残った。それから太宰治は遠ざかった。だいたい、芥川龍之介にしろ太宰治にしろ、まるで人間の苦悩を一身に背負ったような、深刻な顔した顔写真からして、ウザイ、という印象しかない(やはり若い頃に見た肖像画や写真の影響は小さくないのだ)

長部日出雄氏の「マックス・ウェーバー物語」「天皇はどこから来たか」に続き「桜桃とキリスト・もう一つの太宰治伝」を読む。太宰と同じ青森県出身の長部氏の手になるこの「伝記」は前の2作以上に素晴らしかった。著者の太宰への熱狂・愛情がなければこれほどの本は書けないと思った。よくここまで多くの資料を丹念にあたったものだと、それだけでも感動ものである。

要するに太宰は無頼派&デカダン文学者としての人生を全うしたのだ。ある意味、潔い。若き頃は「無頼派」を気取った文学者が老境に差し掛かってからは仏教やら宗教にハマリ、教訓や説教を垂れ、アフォリズム一辺倒に陥る例があるが、実にイヤらしく醜いばかりだ。太宰もキリスト教というか聖書に深く心を惹かれたようだが、説教者にはならなかった。

それと、太宰は人間の深刻な苦悩を描いただけではなく、民話・童話や古典を下敷きにユーモアとウィットに富んだ小説・物語を多く手がけ、むしろ、こちらの方に太宰の本領が発揮されていることを教えられた。名作「お伽草紙」の中の一篇「浦島さん」のユーモアなど高等落語を聞いているようだ。

しかし、今回「女生徒」をあらためて読み直したのだが、これが一番感動した。15~17才くらいの女の子が問わず語りするのだが、四十になった私が読んでも不思議なことに、断然面白いのだ。長部氏によると、この作品は太宰ファンなる女性の日記を借りた太宰が、それを下敷きにして書き上げたそうだ。日記の原文と比べると驚くことに、ほとんど「剽窃」に近い箇所もあるのだ。どうりて、女の子の微妙に揺れる細やかな心理をリアルに描けたわけだ。しかし、ここが肝心なのだが文章は太宰の方が比べ物にならないほどの快いリズム感、繊細さ、美しさに昇華されている。換骨奪胎というよりも、和歌で言う「本歌取り」というよりも高度な芸術的作業が行われたのである。


女生徒の冒頭の一部。

…(朝)パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少しずつ上澄が出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばん醜い。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶(みもだ)えしちゃう。朝は、意地悪…。

これ、もう、何というか、朝が苦手な女性なら分かると思うが、「ここまで女の人の心理を裸にしていまう」太宰の描写力にため息が出て、その魅力に抵抗できなくなってしまう。小刻みに句読点が打たれた文章が快いリズムを奏で、心の琴線にそっと優しく触れてくるようだ。

…風呂からあがって、なんだか今は、星が気にかかって、庭に出てみる。星が、降るようだった…中略…黙って星を仰いでいると、お父さんのこと、はっきり思い出す。あれから、一年、二年経って、私は、だんだんいけない娘になってしまった。ひとりきりの秘密を、たくさんたくさん持つようになりました…。

この辺りを読むうちに、不覚にも涙が出てしまった。
やはり、太宰治って凄い文学者だったんだ。今でも若い人達や女性に人気が高いのもうなずける。


「アリアドネの糸」は「桜桃とキリスト」の第二章の題名になっている。その意味は、ギリシア神話に由来するが、要するに、迷宮の如き難問を解く方法、である。私にとって長部氏のこの本は太宰治という文学者の生き方や文学の謎を解いてくれる「アリアドネの糸」である。
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2012.01.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 文学



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片割月

Author:片割月
和歌を愛し、音楽を愛し、花を愛し、フィギュアスケートが大好きで、歴史・社会・文学が大好きで、ジョン・レノン、八代亜紀、ちあきなおみが大好きで、クリント・イーストウッドと映画も好きで、皮肉とユーモアも好きな変わり者アラフォー熟女ですが、よろしくお願いします。
最近は体力をつける為に、休みの日はえっちらおっちらとミニハイキングに勤しんでいます。

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