「日本人ならば…」を振りかざす人々
「東京五輪に反対する人間は日本人じゃない」
http://togetter.com/li/561330
ほーらね。必ずこういう手合いが出現するんだよね。
「日本人ならば○○すべきだ」「○○しない人間は日本人じゃない」「日本を愛しているなら〇〇すべきだ」
浅田ファンの中にも「日本人なら真央ちゃんを応援するのが当然!」などと叫ぶ例が時々あります。
すると、「マドリード五輪招致に反対するデモに参加した人間はスペイン人じゃない」ということになります。
リアルな場では言えないであろうことも、ネット上だと平気で言えてしまう。
喫茶店かどこかで知人が集まり、仮に誰かが五輪についてネガティヴな発言をしたとする。そこへ「東京五輪に反対する人間は日本人じゃない」などと言う人がいたら、どうなるでしょうか?
私が「日本の最も偉大な古典である万葉集を鑑賞しない人間は日本人じゃない」などとぶちかましたら、周囲の人間は皆、ドン引きするでしょう。
さて、こういう人達の頭には、「日本人はこうあるべきだ」という定規みたいなものがあり、そこから外れた人間は「反日」「非国民」と非難することで、己が優位に立ったと錯覚しているんだろうね。自分は「マトモな日本人」であると、酔い痴れています。あるいは、そこに己の存在証明を見出しているのかもしれません。
そういう言動を前にすると、私は何だか気恥ずかしいような、身体中に鳥肌が立つ思いがします。そして、憂鬱な気分にも。
何故なら、その人達の根底にある思考法は「ダイコトミー」だ。いわゆる黒か白か、悪か正義かの「二項対立」という単純な発想と判断しかない。彼等はそれを変だとは少しも疑わない。
さらに、「日本人ならば」は「愛国心」とダイレクトにリンクします。それも、チープなポンチ絵のような「愛国者」を気取っているだけと私は思いますけどね。
特に、スポーツやそれに類する事柄になると、人は容易に「愛国者」になる傾向がある。日本の音楽や絵画には一切興味が無く、欧米の音楽や絵画をひたすら楽しむ日本人がいても、「オマエは日本人じゃない」と非難されることはあまりない。
しかも、上記のような手合いは、愛国心の底に必ず他者や他国に対する「優越感」や「憎悪」が渦巻いていることを見逃してはいけないと思います。
以前、「歴史・文化」のカテで幸徳秋水の「帝国主義」を取り上げたことがあります。彼はおよそ100年も前に、郷土愛や愛国心が他国への嫌悪とセットになっていると喝破していましたが、それは今でもズバリ当てはまると思いますね。
また、幸徳秋水とは真反対の考え方に立つ三島由紀夫は「愛国心」について次のように述べました。
「実は私は『愛国心』といふ言葉があまり好きではない。
何となく『愛妻家』といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。
この、好かない、といふ意味は、 一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。」
私は三島氏の言葉に強く共感します。特に「官製のにほひがする」や「押し付けがましい」という言葉に。
もう一つ。「私は」の単数形ではなく、自分を「日本人」「私達」というように、集合名詞や複数形(それも己れは多数派という意識の中に)に置くと、人は途端に思考力や判断力が劣化し、他に対して攻撃的・非寛容になる傾向があるようです。怖い。
群れたがる人ほど、そうなる傾向があるようだ。「個」を押し殺し、「集団」に帰依する発想は、日本人には馴染みやすいという文化的風土もあるのでしょうか。
また、「絆」や「一丸」「一体感」「団結」等は美しい言葉ですが、どこか押し付けがましさも感じます。それは「村八分」という言葉に象徴される排他的発想と隣り合わせの関係にあるからだと思います。
前回の東京五輪や札幌冬季五輪の頃までは、たぶん、多くの日本人が五輪開催を無邪気に喜んでいたんでしょう。まさに、「一丸となって」。それが怪しくなったのは長野五輪からでしょう。
五輪について喜ぶ人もいれば、疑問に感じたり、醒めた目で見る人もいます。
色々と意見が別れている。それでいい。
それはすなわち、日本が民主国家として多少なりとも「成熟」した証と思います。
☆五輪を平和の祭典と呼ぶ人が少なくなったように感じます。2008年の北京五輪の「国威発揚」ぶりに、時代がスルスルと後戻りしたかのような不気味さを感じたものです。あの祭典のどこにも「平和の祭典」の精神は感じませんでした。北京に限らず、近年はお国自慢というか、「民族の祭典」的な演出が目立ち、鬱陶しい。
☆五輪の表彰式で「国歌」を演奏するのを廃止したらどうか?
理由。
1.国歌の歌詞にはフランス国歌のように、戦だの血だのと、およそ「平和の祭典」に相応しくないものが少なくありません。
2.いたずらにナショナリズムを煽るだけ。
表彰式では五輪専用の音楽を用意し、それを流すようにしたらどうか。
あるいは、各国それぞれが五輪専用の音楽を用意し、それを流しても良い。
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2013.09.13 | | コメント(15) | トラックバック(0) | 戯けたライフ