歴史に埋もれた人々を蘇らす二冊の本
百姓たちの幕末維新 (2012/02/18) 渡辺尚志 商品詳細を見る |
この本は歴史が好きな人なら一度は読むべき良書だ。
幕末維新と言えば、坂本龍馬や吉田松陰などの志士達の活躍を思い出すが、同じ時代の人口の8割を占めた百姓たちがどんな生活を送り、何を考え、何に喜び悲しんでいたかはほとんど知られていない。
例えば、平安時代の百姓(主に農民)たちがどんな会話をし、何を考えていたかは資料が乏しく、ほとんど知られていない。清少納言の「枕草子」にわずかに登場する。農民たちが田植えをしたがら「ほとどぎすよ。おまえ、こやつ、おまえが鳴いて、私は田植えをするのだよ」と歌うシーンは貴重だ。ただ、これだけである。
従って、映画やテレビドラマはおろか、教科書でもスポットライトが当てられることのない百姓たちの生き方を掘り起こした研究は貴重だと思う。
この本で私は「百姓」について、間違った認識をしていたことを知らされた。つまり、百姓=農民ではない、ということ。百姓によっては商いもすれば木こりもする。田畑を耕すだけではないと知った。
また、秀吉の時代に刀狩がされて百姓は刀とは無縁と思っていたが、長刀ではなく脇差は認められていたという。身を守る為に脇差をしている百姓は珍しくなかった。幕末においては、いわゆる博徒(いわゆる長刀=長ドスを持つ)や非行化した百姓による狼藉が増えていたそうだ。彼等から身を守る為にも脇差をした。
大名領や幕府領における「代官」は部下を数人しか持たず、村の治安から財政まで村による自治に委ねていたという。早い話しが「丸投げ」ということだ。ここからも、如何に武士が何も仕事をしていなかったか知れる。
戊辰戦争では幕府側の庄内藩に使役され、あるいは反対側の官軍側にも使役され、問答無用で家を焼き払われたり食糧を強奪されたり、女子は強姦されたりと、降って湧いたような戦争に翻弄され虐待される姿も描かれている。
ただそれだけではなく、村毎に「名主又は庄屋」、さらに大きくは郡毎に「郡中惣代」等の村役人を中心とした百姓達の武士との「交渉、強訴」など、生きる為の知恵を尽くした戦いがあった。優れた村役人の活躍で無能な代官が左遷されることも珍しくなかったそうだ。これなど今までにあまり知られていない事実ではないか。
一揆も多かった。ただし、一揆は「反幕府、反大名」的な戦いではなく、その時の要求を通す為の手段であった。また、一揆で百姓と武士が殺し合いをするようなことはあまり無かったという。言われてみればそうだろう。お互いに死者やけが人を沢山出しても、何もメリットが無いのである。
明治維新は「革命かクーデターか」という議論が今もあるようだが、武士階級同士の戦いという視点からすればクーデターかもしれない。その後の長い大変革を見れば、穏やかな革命とも言える。しかし、少なくも人口の8割を占めた百姓たちにとっては、迷惑千万な維新であったことは確かなようだ。
斬 (文春文庫) (2011/12/06) 綱淵 謙錠 商品詳細を見る |
この小説は江戸時代、刀剣の試し斬り役と死刑執行役を兼ねた山田浅右衛門の幕末維新である。
これは重厚な傑作である。
山田浅右衛門の名は、山田家の当主が代々名乗った。首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。
ちなみに、ドラマにあった「公儀介錯人」というのは架空の役職らしい。
こちらも百姓とは別の意味で今も脚光を浴びることのない人達である。
奉行所の与力の配下のようでもあり、穢多頭弾左衛門の配下でもあるような、武士というより浪人のような不思議な立場にあった浅右衛門である。
元禄時代から綿々と続いた山田家も幕末維新に翻弄された。明治維新により江戸幕府が消滅した後も「斬刑」が廃止される明治14年まで浅右衛門による処刑は続いたという。すなわち「絞首刑」が全面的に適用されたことで浅右衛門の仕事は無くなった。
綱淵謙錠は資料を駆使しながら、時代に翻弄されながら崩壊してゆく山田家の忍従の姿を淡々と、しかし、男性的な強いタッチで描く。斬刑のリアルな描写はやや残酷で迫真に充ちているが、ここが綱淵氏の本領のようだ。
山田家当主の後添いである素伝という「魔性の女」が登場するが、類型的過ぎて女性としてのリアルさに欠ける。女性が読めば容易に分かるが「男性的なゴツイ筆致」を特長とする作家は新田次郎もそうだが、女性を描くのが実に下手だ。気取った純文学ではないので、ある程度は読者サービスも必要なのであろう。
今回紹介した二つの本の共通項は、いずれも幕末維新の日向の存在をクローズアップさせた名作だということ。
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2012.03.14 | | コメント(7) | トラックバック(0) | 歴史・文化